圧倒的な力
森の奥は、思っていた以上に静かだった。
風が、ない。鳥の声も、虫の気配も。
まるで、この一帯だけ切り取られたみたいに、音が死んでいる。
「……いるね」
前を歩くオーウェンが、何気なく言った。
足は止めない。
けれど、その声にはわずかな確信があった。
セイラは思わず周囲を見回すが、何も見えない。気配も、はっきりとは掴めない。
(いるって、一体どこに……)
その瞬間だった。
――ざり、と。
背後で、地面を削るような音がした。
「っ!」
反射的に振り向く。
いた。
木々の隙間、その奥。
濁った金色の瞳が、こちらを射抜いている。
低く唸る声。ゆっくりと姿を現す巨体。鱗に覆われた体躯、鋭い爪、長くしなる尾。
獣に竜の特徴を混ぜたようなそれは、間違いなく、亜竜だった。
(大きい……)
想像していたよりも、ずっと。
息を呑む間にも、亜竜は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
地面が、かすかに揺れる。
圧迫感だけで、喉が締め付けられるようだった。
「セイラ」
背中から声がかかる。
「下がってて」
振り返ると、オーウェンがこちらを見ていた。
いつも通りの、落ち着いた表情。戦闘前だというのに、まるで緊張がない。
「でも――」
言いかけた、その瞬間。
亜竜が、動いた。
地面を蹴る。
一瞬で間合いを詰め、巨大な爪が振り下ろされる。
「っ!」
身体が強張る。
避けなきゃ、と頭ではわかっているのに、足が動かない。
――来る。
そう思った次の瞬間。
風が弾けて、ごう、と音がした。
視界がぶれる。
何が起きたのか理解する前に、亜竜の身体が、大きく横へ吹き飛んだ。
「……え」
数メートル先の木に叩きつけられ、巨体が地面を転がる。
衝撃で土煙が舞い上がる。
あまりにも一方的な光景に、思考が追いつかない。
「怪我は、してないかな」
すぐ隣で、声がした。
いつの間にか、オーウェンがそこに立っている。
さっきまで、後ろにいたはずなのに。
(見えなかった……)
動きが、まったく。
ただ結果だけが、目の前にある。
亜竜が、低く唸りながら立ち上がる。
怒りに染まった目で、オーウェンを睨む。
次の瞬間、口を大きく開いた。
熱が集まり、喉の奥で、赤い光が膨らむ。
(ブレス――!)
「危な――」
叫びかけた、そのとき。
ぱき、と。
乾いた音がした。
何かが、割れたみたいな音。
次の瞬間。
亜竜の身体が、崩れ落ちた。
糸が切れたみたいに、力なく。喉に集まっていた光も、霧散する。
数秒遅れて、どさりと重い音が響いた。
あまりにもあっけない、終わりだった。
「……今の」
セイラの声が震える。
「何、したんですか」
「ん?」
オーウェンは少しだけ首を傾げる。
「急所を断っただけだよ」
軽く言う。
まるで、簡単な作業の説明みたいに。
(見えなかった……)
さっきも、今も、何一つ。
自分は、何もできなかった。ただ、立って見ていただけ。足手まといにすらなれていない。
胸の奥が、ざわつく。
「……すごいですね」
やっとのことで言葉を絞り出す。
本心だった。
けれど、それだけじゃない。その言葉の裏にあるものに、自分で気付いてしまう。
悔しさと情けなさ。
オーウェンは、そんなセイラをしばらく見ていた。それから、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「怖かった?」
静かに問われる。
セイラは一瞬だけ言葉に詰まり、
「……はい」
正直に頷いた。
怖かった。
敵も。
そして――
隣にいる、この人も。
「でも」
続ける。
「安心も、しました」
それも、嘘じゃない。
あの一言で。
“下がってて”と、言われたとき。
心のどこかで、大丈夫だと思ってしまった。根拠なんて、何もないのに。
オーウェンは、小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけを言う。
否定もせず、誇りもせず、ただ、受け止める。
その距離感が、少しだけ救いだった。
「……オーウェンさんは、いつから冒険者を?」
彼は一体どれほどの時間を掛けて、この強さを手に入れたのか。
「僕かい? えっとね、100歳くらいの時に故郷を出たから、大体400年くらいかな」
さらりと告げられた年数にセイラは瞠目した。両親の年齢を足しても届くか届かないか、竜人だとしてもとてつもなく長命だ。
「そんなに……今までつがいと出会えなかったから?」
竜人がそんなにも長く生きてこられた理由なんて、それしかない。セイラは半ば確信しながら尋ねた。
「……ああ、ずっとね。でもいいんだ。これまでの人生なんて、つがいと出会うまでの暇つぶしみたいなものだったから」
「それは……」
一瞬、言葉を失う。
けれど。
「いつか、出会えるといいですね」
セイラはすぐに続けた。まるで何かの可能性を断ち切るように。
オーウェンは、わずかに目を細める。
「……うん」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなる。
「君は? いくつなの?」
「私はちょうど50歳です。成人してすぐに人間の街に下りてきました」
「そうか。……まだ若いんだね」
それだけ言って、オーウェンは手を差し出す。
「じゃあ戻ろうか」
まるで、散歩の帰りみたいに。
セイラは、ためらいながらもその手を取った。
触れた瞬間、胸の奥がまた少しだけ熱くなる。
(……ずるい)
強くて、優しくて。
こんなふうに、当たり前みたいに隣にいて。
離れられなくなるに決まっている。
セイラは、バレないようにそっとその手を握り直した。
***
ギルドに戻ったとき、空気は行きと同じようでいて、どこか違っていた。
扉を開けると、いつもの喧騒が流れ込んでくる。笑い声、怒鳴り声、酒の匂い。
――けれど。
一歩、二歩と中へ進んだところで、ふっと音が薄くなった。
「……あれ」
誰かが、小さく呟く。
それをきっかけに、視線が集まる。ざわ、と波のように広がる気配。
「帰ってきた……」
「早すぎねえか?」
「いや、時間的におかしいだろ」
ひそひそと交わされる声。
セイラは思わず足を止めそうになったが、隣を歩くオーウェンは変わらない速度で進んでいく。
迷いも、躊躇いもない足取り。
受付の前に立つと、職員の女性が顔を上げた。
「おかえりなさ――」
言葉が、途中で止まる。
視線がセイラからオーウェンへ移り、そのまま固まった。
「……え」
小さく、息を呑む音。
「依頼の報告を」
オーウェンが淡々と告げる。
「森の亜竜は、もう出ないと思う」
一瞬の沈黙。それから。
「は、はい……っ」
慌てた様子で書類を取り出しながら、職員は何度もセイラとオーウェンを見比べる。
「えっと、その……討伐、完了ということで……?」
「うん」
あまりにも軽い肯定。
けれど、それを聞いた瞬間、周囲の空気が明確に揺れた。
「本当かよ……」
「あの依頼だぞ……?」
「半日も経ってねえぞ」
ざわめきが、今度は隠そうともせず広がっていく。
セイラは思わず視線を落とした。
(……やっぱり、おかしいんだ)
あの強さ。あの一瞬。
自分が見たものが、どれだけ異常だったのか。今さらのように実感が押し寄せてくる。
「討伐証明は……」
職員が恐る恐る問いかけると、オーウェンは軽く顎を引いた。
「外にあるよ」
「……外?」
「大きいから」
その一言で、何かを察したのか。職員の顔が引きつる。
「か、確認させていただきます……!」
半ば逃げるようにカウンターを出ていく背中を見送ると、すぐに職員の悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
「ほ、本当に亜竜……!?」
ざわめきが、一気に爆発する。
「マジかよ!」
「一体であの被害だったんだぞ……」
「それをこの短時間で……?」
視線が、再び二人へと集中する。けれど今度は明確だった。
その大半が向けられているのは、オーウェンだ。畏れと、畏敬と、理解の及ばないものを見る目。
その渦の中で、セイラだけが少しだけ浮いている。
(……私、ここにいていいのかな)
ふと、そんな考えがよぎる。
さっきまで同じ場所に立っていたはずなのに、急に距離ができた気がした。
オーウェンと、自分の間に。
そのとき。
「セイラ」
聞き慣れた声がかかった。
振り向くと、フィールが立っている。
「お前……あの人と正式に組むのか?」
探るような視線。セイラは何と答えていいか分からず、言い淀んだ。
「……ええと、それは」
「やめとけ」
短く、はっきりとした否定。
「レベルが違いすぎる。あの人は“あっち側”だ」
あっち側。その言葉が、妙に重く響く。
「一緒にいれば楽はできるかもしれねえけどな」
フィールはちらりとオーウェンを見て、声を落とした。
「気付いたら、何もできないまま終わるぞ」
言っていることは、わかる。
実際、さっきの戦いでセイラはほとんど何もできなかった。あの一瞬で、全部終わった。
(……確かに)
このまま一緒にいれば、きっと自分は守られて終わる。
そう思った、そのとき。
「それはないよ」
静かな声が、割って入った。気付けば、オーウェンがすぐ後ろに立っている。
フィールは一瞬たじろぐ。
「……聞いてたのか」
「少しだけ」
オーウェンは当然のように、セイラの隣に並んだ。
「この子は、ちゃんと自分で戦える」
迷いのない、はっきりした言葉。その一言が、胸に落ちる。
フィールは何か言いかけて、やがて舌打ちをひとつした。
「……好きにしろ」
それだけ言い残して、背を向ける。
残された空気が、少しだけ緩む。
オーウェンは何事もなかったかのように、セイラを見た。
「気にしなくていい」
軽く言う。
「よくあることだから」
――よくあること。
この人にとっては、これが日常なのだ。
セイラは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……フィールさんが言ってたこと、間違ってないと思います」
正直な言葉だった。
自分でもわかっている。実力差は、圧倒的だ。
オーウェンは一瞬だけ目を細めて、それから小さく笑った。
「そうだね」
あっさりと肯定する。
「でも、それでもいいんだ」
その言葉に、セイラは顔を上げる。
オーウェンは穏やかなまま、続けた。
「君と一緒にいたいから」
――心臓が、跳ねた。
あまりにも自然に言われたその言葉に、返す言葉が出てこない。
周囲のざわめきが、また少し遠のく。
「……どうしてですか」
かろうじて絞り出す。
するとオーウェンは、ほんの少しだけ考えるように視線を揺らしてから、
「さあ」
と、曖昧に笑った。
「なんでだろうね」
そう言って、軽く肩をすくめる。
けれどその瞳は、まったく迷っていなかった。
セイラは胸の奥に残る違和感を抱えたまま、小さく息を吐いた。
「……じゃあ」
顔を上げる。
「もう一つ、依頼付き合ってくれますか」
自分でも驚くくらい、すんなりと言葉が出た。
オーウェンは一瞬だけ目を瞬かせて、それから嬉しそうに笑う。
「もちろん」
即答だった。
「どこへでも」
その言葉が、妙に現実味を帯びて響く。
セイラはなぜか、ほんの少しだけ、引き返せない場所に足を踏み入れたような気がした。




