同族と出会った日
ギルドの扉を開けた瞬間、熱気が肌にまとわりついた。
酒と鉄と汗の匂い。怒鳴り声と笑い声が混ざり合う、ひどく騒がしい空間。
人間の街に来てから何度か足を運んだが、セイラはまだこの空気に慣れない。
受付の前では冒険者たちが依頼の取り合いをしていて、奥では卓を囲んだ男たちが酒瓶を打ち鳴らしている。
里では見たことのない光景ばかりだ。
(今日も、何か受けられる依頼があるといいけど……)
小さく息を吐き、掲示板へと歩き出そうとした、そのときだった。
扉が、もう一度開いた。
ぎぃ、と軋む音。
それだけのことのはずなのに、なぜか、空気が変わった気がした。
ほんの一瞬。
喧騒が遠のいたように感じて、セイラは思わず振り返る。
――誰かが、入ってきた。
背の高い男だった。
特別に派手な格好をしているわけでもない。むしろどこにでもいそうな、簡素な装いだ。
けれど。
(……あ、竜人だ……)
人間より少し尖った耳と喉元に生えた真っ青な鱗は、竜人そのものだった。
だが、セイラはほとんど人間と変わらない姿で、背中と腕に鱗が控えめに付いているだけ。人間の街にやってきてから半年ほど経つが、竜人だと気づかれたことはない。
身近な竜人たちと比べても、こんなにはっきりと特徴が出ているのはかなり珍しい。
人間の街にやって来てから初めて出会った同族を見て、セイラは無意識に自分の腕に生える鱗に触れていた。
男は扉の前で一度立ち止まり、周囲を見渡した。その視線が、何気なくこちらへ向く。
そして、目が合った、瞬間。
男の動きが、止まった。
時間が、ひどくゆっくり流れたように感じる。
驚いたように目を見開き、次の瞬間には、信じられないものを見る顔になって――。やがて、それが静かにほどけていく。長い長い何かが、ようやく終わったような、安堵にも似た表情。
その様子を見たセイラは無意識に息を呑んでいた。
男が、一歩、こちらへ歩き出す。
二歩、三歩。
まっすぐに、迷いなく。
まるで最初から、ここに来ると決まっていたかのように。
やがて目の前で立ち止まると、男はわずかに視線を落として、セイラを見つめた。
その瞳は、ひどく穏やかで――。
けれど、ほんの少しだけ、揺れているようにも見えた。
そして、男は口を開く。
「こんにちは」
やわらかな声だった。どこか懐かしさすら感じる、落ち着いた響き。
「やっと会えたね」
――心臓が、大きく跳ねた。
意味は、わからない。けれど、その言葉だけが妙に深く胸に落ちてくる。
セイラは一瞬、言葉を失って、それから、ほんの少しだけ眉を寄せて、首を傾げた。
「……誰?」
男はわずかに目を細めた。
困ったような、でもどこか嬉しそうな、不思議な表情。
「俺はオーウェン」
名乗るその声音は、ひどく穏やかだった。
まるで、何度も繰り返してきた自己紹介のように。
「君の名前を聞いてもいいかな」
そう言われたとき、なぜかセイラは、ほんの一瞬だけ迷った。
別に危ない相手じゃない、穏やかで理性的な同族。普通に考えて警戒する相手ではないのに、名を教えてしまったら、何かが決定的に変わってしまうような気がした。
それでも。
「……セイラ、です」
気付けば、口にしていた。
その瞬間、オーウェンの瞳が、ほんのわずかに細められる。
嬉しそうに。
噛みしめるように。
「セイラ」
ゆっくりと、その名を繰り返す。
確かめるように。
大切にするように。
そして、微かに笑った。
「いい名前だ」
***
セイラは竜人たちが集う里で育ってきた。
竜人は人の姿に、竜の特徴をあわせ持つ非常に珍しい種族で、人間よりも遥かに強い力を持つ。
竜人たちの中でも争いを好まない一族は、長い年月をかけて彼らだけの集落を作り、穏やかに暮らしていた。
竜人の里は、季節の移ろいがゆっくりだった。
山の奥深く、霧に守られるように存在するその場所では、時間そのものが外界とは違う流れ方をしている。
幼い頃の記憶は、どれも淡く柔らかかった。
大きな背をした父に肩車をされて、森の上を見渡したこと。
母の手のひらが、いつも少しだけ熱を帯びていたこと。
同じ年頃の子どもたちと、終わりのない一日を何度も繰り返したこと。
竜人の寿命は人間よりもはるかに長く、成長速度もかなり緩やかだ。彼らは生まれてから50年経ったところで、やっと成人と看做される。竜人にとって、“終わり”は遠いものだった。
少なくとも、あの頃のセイラにとっては。
「セイラは、もうすぐ成人だな」
ある日、父がそう言った。
焚き火の向こうで、静かに笑いながら。
「うん。あと一年くらい」
「早いものだ」
母が穏やかに頷く。
「成人したら、どうする?」
父の問いは、何気ないものだった。
けれど、セイラは少しだけ考えてから答えた。
「……外に出てみたい」
焚き火が、ぱちりと弾ける。
ほんの一瞬、空気が止まった。
「人間の国?」
母が静かに聞く。
セイラは頷いた。
「うん。見てみたいの。里の外がどうなってるのか」
父は、少しだけ目を細めた。
驚いているわけではない。
むしろ、どこか納得しているような表情だった。
「セイラらしいな」
そう言って、小さく笑う。
「あら、止めないの?」
焚き火に薪をくべながら母が尋ねた。
「止めても行くだろう」
「そうね」
くすりと、母も笑った。
そのやり取りに、セイラは少しだけ頬を膨らませる。
「人のこと、わがままみたいに言わないで」
「分かっている」
父は穏やかに言った。
「ただ――ひとつだけ、忘れるな」
火の向こうから、まっすぐに視線が向けられる。
「お前は、竜人だ。……竜人は、いつか必ずつがいと出会う」
父は静かに続けた。
「たった一人の、運命の相手だ」
それは、子どもの頃から何度も聞かされてきた話だった。
けれど。
このとき初めて、その言葉が少しだけ現実味を帯びる。
「出会った瞬間に、わかると言われている」
母が言葉を継ぐ。
「理由なんてないの。ただ、“この人だ”って、そう心に浮かぶのよ」
「……本当に?」
セイラは思わず聞き返した。
「本当だ」
父は迷いなく頷く。
「理屈じゃない。逃げようとしても無駄だ」
その言い方に、少しだけ笑ってしまう。
「なにそれ」
「そういうものだ」
けれど、次の言葉は少しだけ静かだった。
「そして――結ばれたとき」
火が、小さく揺れる。
「竜人は、初めて“終わり”を持つ」
セイラは、瞬きをした。
「……終わり?」
「寿命よ」
母が穏やかに言った。
「つがいと結ばれた竜人は、そこからおよそ百年で命を終える。それまでは、老いない。どれだけ時間が経っても」
父が続ける。
「だが、つがいと共に生きることを選んだ瞬間から、時間は動き出す」
火の音だけが響く。
セイラはしばらく何も言えなかった。
「……怖くないの?」
ぽつりと、こぼれる。
「怖い?」
母が首を傾げる。
「終わりがあるってこと」
少しの沈黙のあと。
父は、ゆっくりと首を振った。
「いいや」
そして、隣にいる母を見る。その視線は、とても静かで、揺るがないものだった。
「むしろ、ようやく生きていると思える」
母もまた、小さく頷く。
「長すぎる時間は、ときに空白になるの」
その言葉は、不思議と胸に残った。
「つがいと過ごす時間は、限られている。だからこそ、大切にできる」
「……」
セイラは、火を見つめた。
終わりがあるからこそ、意味がある。その感覚は、まだよくわからない。
「人間の街に暮らす竜人はほとんどいないと聞く。だから、お前が外に出るなら、長い間孤独に生きなければならない可能性もある。それこそ、何百年も」
「……うん」
セイラは頷いた。
「それでも、行くのか」
「行くよ」
はっきりと答える。
「出会うためじゃなくて、見たいから」
世界を、自分の知らないものを、この目で見てみたい。
「……そうか」
父は、満足そうに笑った。
「なら、行ってこい」
母も、優しく頷く。
「帰りたくなったら、いつでも戻ってきなさい」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
ここは、帰る場所だ。それを知っているからこそ。
「うん」
セイラは笑った。
「行ってくる」
そのときはまだ。
“運命”が、どれほど強いものかも。
“終わり”が、どれほど近く感じられるものかも。
何ひとつ、知らなかった。




