59 きっと何処かに
「そろそろ出ようか」
「すみません、少々忘れ物を。すぐ戻ります」
思いついて、台所のくず入れからびわの種をひとつ拾い、すすいでポケットに入れる。1秒が惜しくて、慌てて玄関へ向かう。
「お待たせしました」
「大丈夫か?」
「はい」
散歩に出かけるかのように、靴を履き、悠然と表へ出るゼファ様の後を追う。いつものように玄関が施錠されれば、そのまま黙って僕へと鍵が預けられる。もう使わない、と言われているようだった。
「行き先はありますか」
「皆の元へ」
察して頷き、風のマナで僕らを包む。このまま自宅へ攫ってしまいたくなったが、そんな勇気さえなかった。ゼファ様は空からの景色など何度も見たはずだろうに、懐かしそうに楽しそうに見下ろしていた。
薬が効き始めるまで半刻を残して、アイドレール北部の墓地へと到着する。外はよく晴れていて、暖季の初めらしい暖かさが眠気を誘う。遠い地平線の向こうには入道雲が見え、風はやわらかな湿り気をもっていた。陽の当たる草原の真ん中に二人そっと降り立てば、墓標たちがよく見える丘まで歩く。
「この辺りで……いいだろう」
近くの木陰にゼファ様がそっと腰を下ろしたので、僕も隣に座る。ゆるい風が吹いて、互いの髪がふわふわと揺れる。
「たった1年の付き合いだったな」
ゼファ様が呟く。
「……1年もの、長い付き合いです」
「10年ちょっとしか生きていなければ、そうか」
16分の一と千分の一では、きっと長さも重みも全く違う。僕なんて、ゼファ様からしたらパッと現れてすぐにお別れの存在だろう。それがやけに寂しくて、亡きご友人たちにもちょっと嫉妬して、だけどそれくらいの浅い関係で良かったとも思えた。
僕だけは沢山憶えていたい。ゼファ様のことを。
「……ゼファ様の好きなもの、聞いてもいいですか」
「人だ。お主のような、な」
即答される。人嫌いだと聞いていた頃が懐かしい。
「人が好きすぎたのだ。だから光環の向こうへ行きたかった。死者の国、魂の還る場所へ――」
「嘘。そんなの信じてないでしょう」
……見抜かれると思っていなかったのか、それとも意味をわかりかねているのか、ゼファ様が目を丸くする。
「書斎の本棚の最下段。あれ、ケルク様の研究資料ですよね。――題は、『光環が未知エネルギーの集合体である証明、およびその根拠について』。恐らく、エネルギーとは何らかのマナのことでしょう。光環が死者の国への門ではないと、ただの光る輪っかなだけだと……そう知っておいでです。貴方は」
もう時を戻せないという、静かな絶望だけが僕の心を支えていた。
「死者の国などない。なのに、どうして肉体を手放すのですか」
ゼファ様はふっと寂しそうな顔をして、また笑顔を作った。
「……近代世語が読めるようになったのか。凄いな、お主は」
我が子を褒めるような慈しみ方だった。ゼファ様の優しさがずっと棘となって心に刺さり続けて、叫びだしたくなる衝動に駆られる。
「確かに、光環はただのマナの塊。だが――魂の還る場所は、そこになかった、というのみ」
ひと吹きの風が僕らをまた撫でれば、頭上から葉が幾らか舞って落ちてくる。
「きっと何処かにある。我が魂が導いてくれる」
ゼファ様は自身のみぞおちに手をそっと添えた。
空がずっと高い。
服用された薬の仕組みとか、ムウさんの近況とか、裁縫のコツとか。そういうのを訊かれては、答えていた。もう使うことのない知識のはずなのに、僕にばかり話させようとする。幼い子どもに、寝る前に童話の読み聞かせをねだられるみたいで、なんだかいやに寂しくて、心の穴を埋めるようにただただ語るしかできなかった。
ふと、ゼファ様の身体がずるりと傾き、僕の肩へと頭が乗せられる。そして僕の手へゼファ様の手が被せられるので、指を絡めるように手を繋ぎ直した。人の体は温かくて、呼吸をしていて、心音が薄く鳴っている。
ずっと今日、泣きたかった。でも笑って見送りたかったから、会話の途切れは奥歯が割れそうなほどに食いしばり続けた。繋いだ手と手の隙間が汗で少し湿って、ぬるりとする。僕のぐちゃぐちゃな心とは対照的に、ゼファ様は、終始穏やかに微笑んでいた。
陽は僕らを照らし続けた。
影がゆっくりと傾き続ける。僕の拙い語りが、時を進めていく。終わってしまう。でも話すのをやめられない。まだそこにいるのに、どうにか隣に居られないかと追いかけ続ける気分だった。ゼファ様の相槌はだんだんと少なくなって、僕は必死に言葉を紡ぎ続けて。いかないでほしい、という願望をただ、とりとめのない話で上書きし続けた。
暫く話をしていると、ぴくりとゼファ様が体を揺らす。
「……痛」
「どうなさいましたか」
「胃が、焼けるように痛い」
薬の効果が、現れ始める。




