58 側に居て
いつものように旧宅街へ行き、ゼファ様の家を訪ねる。いつもより少し姿勢を正して、ドアをノックする。
「セドです。お邪魔します」
「ああ、入れ」
玄関で靴を脱いで揃え、書斎へ向かう。
「待っておったぞ。丁度今朝、びわを買うてきた。一緒に食べよう」
「ありがとうございます。剥いてきますね」
「よいよい。たまには我にも、もてなしのひとつくらいさせてくれ」
くしゃりとゼファ様が笑えば、椅子からゆっくり立ち上がって、のしりのしりと台所へ歩いていく。そのすれ違いざまに、大きく黒い手が僕の頭をひと撫でしていった。
荷物を置いたら居間にいるよう促されたので、先に座って待たせてもらった。しばらくすれば、山ほどびわの入った器とピックが運ばれる。お礼を言い、指を組んで祈ってから、切り分けられた果肉をひとつずつ頂く。
「ゼファ様は、最近は何をされていますか」
「ん? 見様見真似で裁縫を始めたところだ。仲の良かった針子の――ほら、その服の。セドが来たばかりの頃に渡した服の作者だ――そいつの作品が出てきて、懐かしくなってな」
「うまくいきました?」
「いいや。サシェひとつ作るのにも、何度指を刺したことか。その度に血が出て焦るのだよ、この体は」
朗らかに笑いながら近況を話すゼファ様は、僕よりもずっと生き生きしていた。仕事も最低限にとどめ、相変わらず気ままに遊び回っている。
楽しそうなゼファ様を、ずっと見ていたかった。
「……この先、しばらくは裁縫を?」
「ああ。いつ飽きるかわからぬが、とりあえず二週間ほどはやってみるつもりだ」
「僕、実はちょっとだけ針仕事ができるんです。何かあれば訊いてください」
「はは、頼もしい」
明日のことを、未来のことを、当たり前のように語る。食事も睡眠もしっかりとられて、誰より豊かに、生を謳歌されていた。
――僕はそんなゼファ様の目の前に、小瓶を二つ差し出した。
「これは」
「はい」
その手の大きさには不釣り合いなほどに小さな瓶を摘み、紅い目が中身を見つめる。時々製薬の進捗を共有していたから、その表情に驚きはなかった。
「この薬で、〝なくなれ〟ます」
亡くなる、ではない。失くなる、でもない。ただ大地に還るため、姿かたちを無くすことができる。そんな薬だ。
「まず片方に入っている丸薬を服用してもらって、その後にもう片方の液薬を。味は正直美味しくないと思うので、口直しを用意すると良いと思います。服用から三刻経てば効き始め、それから一刻で……効ききります」
僕はそっと頭を垂れるように、目を伏せる。どうかまだ、まだ手元にとどめ置いてくれという言葉をぐっと堪えた。
「……いつでも」
「ああ、本当に――有難う」
視線を外した隙に、瓶を開ける音がした。え、と驚いて顔を上げれば、既に瓶を一つ空にし、もう一つの瓶を呷るゼファ様の姿があった。
「ゼファ様!」
「ハハ、確かに不味い」
顔をしかめながらも笑い声を上げ、切られたびわを数個、一度に口に放り込む。なんでもない日常のひとつ、まるで苦い茶を飲んでしまったときのように、不味いなあと言いながら小首を傾げていた。
「何も、今でなくても。その、準備とかあるじゃないですか!」
「迷う時間は少ない方が良い」
むぐむぐとびわを咀嚼し飲み下し、口元を布で拭いながらゼファ様は言う。
「十分、楽しかったからな」
僕は驚きのあまり、声にならない声しか出せないでいた。思わず向かいに座る大きな身体に手を伸ばすが、机に阻まれて届きなどしないし、その手を掴めたところで何も変えられないのをすぐに悟り、指先をだらんと床へ向けた。
「もっと貴方にはやるべきことが……二週間は、裁、縫を……って……」
「急用が出来てしまったのだ」
急ぐことは何一つないのに。ああ、いかないで。まだいかないでくれ。
「あと三刻、それから一刻か……確かに、人恋しくなる」
ゼファ様は目を細めて、僕を見つめる。
「傍に居てくれるか? セド」
二刻ほど自由にしていい、その後行き先を言うからそこまで送ってくれ、と頼まれた。食器の後片付けを手伝ったあと、僕は書斎のベッドに腰掛け、ただ俯くしかできないでいた。ゼファ様は水浴びを終え、清潔な服へと着替えてから、遅れて書斎へ入る。頬骨まで包む鱗は、まるで花弁を散らしたようだった。
「ここにある物、本も全て自由にすると良い。手記は――燃やしておいてくれるか」
ゼファ様は本棚から一冊の手記を取り出して開く。ペン立てから僕の贈った万年筆を抜いて、何か一筆書けば、すぐにパタンと手記を閉じて本棚へ仕舞う。
「燃やせと言うのに、書くのですか」
「うむ」
説明ひとつない返事に、何か理由が込められているように思えた。書くことで心の整理をつけるため、とか。
「セドは、何かあるか。我に伝え損ねたことなど」
「……また後で」
「そうか。楽しみにしている」
楽しみ、だなんて言わないでくれ。僕の別れの言葉を。
ただ視線を彷徨わせるしかできなくなって、部屋の端々からゼファ様の生活の痕跡を探してしまう。飲みかけのコップや山積みの紙束、まだ新鮮な花瓶の花から、ゼファ様がきちんと〝生きてきてくれた〟ことを痛いほどに突きつけられて、辛くなった。
そして、視線が本棚に移る。ムウさんから近代世語を教わったために、背表紙が読める本がいくつか増えていた。
(――これ、は……?)
棚の最下段、僕がかつてゼファ様の了承を得ずに、勝手に読もうとした本が視界に映る。
――触るな。最下段の棚は我の手記だ。それ以外なら良い。
(これは手記じゃない。……こんなのって)
気づいた頃には、もうすべて遅かった。
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享世1588. 4. 17
今から行く。
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