57 迎えた
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暖季が終わり、寒季がやってきた。
僕らが住む地域は雪こそ降らないものの、葉に霜が降りたり、地面が凍結したりする。
ゼファ様は昔貰ったという洒落た外套を引っ張り出して、近くの酒場を幾つか巡ると言った。心配なので着いていけば、案の定、加減が分からず潰れてしまわれたので、酒の効かない素面の僕が運んで帰る。古い銘柄の瓶を指差しながら想い出を語るゼファ様は、いつもより饒舌に見えた。
製薬については、ムウさんのノートに知りたいことが殆ど書かれていた。何なら過去、ムウさんが似た効果の薬を作ろうとし、また僕と同じくノトロ菌を用いようとしていた記録があった。疫病にかかった家畜の殺処分用途だったみたいだが、辛くなってやめた、と添え書きされていた。
寒季の真っ只中になった。
暖炉の前から動かないムウさんをブランケットで包むのが、朝の日課に追加された。
ゼファ様から新しい身分情報を貰った。神が人間社会に溶け込むための特殊なデータなので、あまり多用するなと言われた。その後東方大陸に行きたいと言うので、送迎をする。獣混人であるゼファ様を、生まれ故郷であるイェンイム公国のシキル地方へと送り届ければ、幼い頃、どんな遊びをしていたかたくさん話してくれた。僕にとって初めての外国だったが、人種や文化こそ違えど、生活の営みやそこに息づく温かさは、馴染みのコフ村の雰囲気とよく似ていてほっとした。
研究も、ムウさんのノートと知恵のおかげで、あと一歩のところまできていた。驚異的な早さだ。ノトロ菌が人体に入ったとき、約10年かけて肉や骨を食べきるという。しかしそれでは遅く、食道を通ったあたりで何とか爆発的に増加させられないか、最近はそんな実験ばかりしていた。
風の冷たさが和らぎ、寒季が終わろうとしていた。
ゼファ様は本当によく笑うようになった。木に咲く花や店に並ぶ工芸をひとつ見かければ、これは誰が好きだった、そいつはこんな困った奴でな、と流れるように話す。最近知ったのだが、ゼファ様は楽器も嗜んでおられたらしい。試しにシミエ村の家から、ニコ様の私物であろう弦楽器を渡してみれば、慣れた手つきで弦を張り替えてみせた。それから古い民謡や子守唄を教えてもらい、伴奏をつけてもらって、二人で歌った。ひとつ曲を覚えるたびに撫でられるのは、少し照れくさかった。
薬も大枠はできており、あとは細かい分量や服用方法の調整のみだった。オブラートか、錠剤か、粉末か。希少な材料をふんだんに使っていたので、方向性が固まるまではプラセボを利用して、体温での溶け具合や、動物での実験を試し続けた。
寒季が終わり、暖季を迎えた。
夜が明けて数刻が経ち、外はとっくに明るくなっていた。
ふう、と僕は大きくため息をつき、伸びをする。散乱した器具を丁寧に運び、洗い、干しておけば、不機嫌そうに寝起きのムウさんがぺたぺたと実験室に入ってくる。
「……セド、暖炉に火がない」
「おはようございます、が先でしょう。それにもう暖かくなったんですから、今日から暖炉はお休みです」
「まだ寒い」
「もう。わがまま言わないで」
椅子にかけてあったブランケットをムウさんにそっとかぶせ、小さな手にその端を持たせる。
「……しばらく家を空けますね」
「どこへ行くんだ?」
「アイドレールへ」
「いつも行ってるじゃないか。……ああ、成る程」
菫色の瞳が、ちらと実験室の机を見やる。
「出来たのか」
「ええ」
「記録、残しておけ」
頷けば、それ以上言及はなかった。黙って器具の片付けの続きを行えば、暫くしてムウさんも手伝ってくれた。カチャカチャと器具のぶつかる音が、朝の淡い光で満たされた実験室に響く。
洗濯や掃除を終えれば、鞄を担いで、玄関で靴を履き、コツコツと足先で床を叩く。忘れ物もない。耳裏のアンプルは、念の為に入れておいた。
玄関のランプはとうに点かなくなっていたが、窓からの光が柔らかく明るくしていた。
ドアに手をかけたとき、ムウさんが見送りのため駆け寄ってきてくれる。
「気をつけるんだぞ」
「はい。ムウさんこそ、不在時はしっかり頼みますよ」
「わかっている。……はあ、見送ってばかりだな、私は」
僕はムウさんの頭をぽんぽんと撫でて、微笑んだ。
「見送ってくれる人がいるから、帰ってきたいと思えるんです」
ムウさんが僕の言葉を受けて、表情を柔らかくした直後、あ、と声を漏らす。
「そうそう。もしゼファと別れるなら、この言葉を贈ってやれ」
「言葉?」
「クフェルセド・ラ・トァイエ――と、そう言ってみろ」
くへるせど……と繰り返せば、下手くそだな、と笑われる。すごく古い言葉なのか、なんと言っているのか全く分からない。
「どういう意味ですか?」
「あのおっさんに聞いてみればいい。さあ、行ってこい」
促されて、玄関を出る。外の空気は澄んで冷たく、明日はともかく、今日はよく晴れそうだ。
くへるせど、ら、とわいえ……そう唱えながら、空へと飛び立った。――この言葉に、僕の名が含まれていることに気付かないまま。




