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47 前夜

 1, 12, 34, 39話に挿絵を追加しました。

 よろしければご覧ください。

 人の身体でいられるのが残り僅かとは言うものの、実感が沸かなかった。それで大きく生活が変わるわけでもなければ、死ぬわけでもないのだから。



 あと6日。神力に頼りすぎて体が鈍っている気がしたので、今日から毎朝、懸垂と腹筋をすることにした。数日でどうにかなるとは思っていないが、汗を流すのは気持ちよかった。


 あと5日。食事や睡眠、排泄を少し長く我慢して、生理的な感覚に意識を向けて過ごしてみた。この日の夜は腹がちぎれるほど食べ、すぐに横になれば気持ち悪くなった。


 あと4日。隠し持っていた麻薬のひとつ、グロームベリーの粉末を支障を来さない程度に吸ってみた。酩酊感と多幸感で夕方まで潰れていたら、ムウさんに叱られてしまった。


 あと3日。村に下り、薬を納品するついでに散髪に行った。この長い髪は結構気に入っているので、毛先と前髪と眉だけ整えてもらった。


 あと2日。肌の手入れでもしておけとムウさんから言われたので、体毛の処理や爪切りなどをした。アロエとヘチマ水の混合液をムウさんから貰い、全身に塗って寝てみた。



 あと1日。


「他にしておくべきことってありますか?」

「風呂に長く浸かって垢を落とすくらいか」

「もう済ませました」


 神継ぎの前夜。寝支度は終えてしまって、あとは眠るだけになってしまった。やり残したことがないか訊きながら、読書中のムウさんがいる居間へと入る。髪はまだしっとりとしているが、あらかた梳き終えたので、櫛をポケットへ仕舞った。その様子を見たムウさんが、何かを思い出したようにパタリと本を閉じ、顔を上げる。


「そうだ。私の部屋に来てくれ」


 読んでいた本を脇に抱え、椅子から立ち上がる。後をついていけば、そのままムウさんの部屋に通され、ベッドのふちへ座るように促された。


 ムウさんは僕が腰を下ろしたのを確認すると、机の下の小さな引き出しから、拳ほどの小瓶を取り出す。蓋を開け、中の液体をその小さな手の上に幾らか取って、両手を擦り合わせれば、花の蜜のような甘い香りが漂う。


「香油だよ。櫛を貸してくれるか」


 言われるまま、仕舞ったばかりの櫛を手渡す。そしてムウさんは僕の後ろへ回り、僕の髪へと手指を軽く通してから、櫛でしっかりと梳いて香油を馴染ませる。


 撫でてもらうような安心感と気恥ずかしさがあるが、前に簪を挿してもらった時よりも、ずっとすんなりと受け入れられた。手入れというよりも儀式に近い雰囲気があって、このとき初めて、ああ僕は神となろうとしているのだ、人間としての人生が終わるのだ、と実感した。


「……怖くないか」

「はい」

「私は、少し不安だ」


 思わず振り返ろうとすると、小さな両手で頭が優しく挟まれる。ゆっくり前を向かせるように促されるので、逆らうことなく、僕は前だけを見つめた。


「だがセドが決めたことだ、きっと大丈夫なのだろうと……そう信じようと思う」

「勿論。どうか、信じてください」

「ん――」


 花の香りが部屋を満たす。ランプの灯りがゆらゆらと揺れて、橙の光の中、僕らの影が壁へと浮かぶ。最後に一度、するりと梳かれれば、唾を飲み込む音が聞こえた。


「……すこしだけ――」


 ゆっくりと体重を預けるように、ムウさんが後ろからもたれかかり、僕の上体に腕を回して抱きしめる。梳いたばかりの髪に顔を埋められ、首元に重みを感じる。


 壁に映る僕らの影がひとつの塊となって、どちらがどちらのものであったか、境目がわからない。ぎゅう、と本人は力強く抱きしめているつもりだろうが、全く苦しくもないし、身をよじればすぐに振りほどけそうだった。


「やがてこの体温も、失われる」


 ぽつりとムウさんが零した。背中に感じる体温はひんやりとしている。これも、神の体――マナ構成体の特徴のひとつ。37℃弱にぬるく保たれる僕の体温も、それを実現するためのこの血の巡りも、ムウさんにとっては感じられるのが最後の日。


 長く長く抱きしめられれば、体が離される。振り返ってその表情を見れば、寂しそうな笑みがそこにあった。


「……〝マグノリア〟は、ハグはいらないですか?」

「えっ」

「大人の姿だと、ほら。接触面積が増えるでしょう」


 ムウさんは少し躊躇して、大人(マグノリア)の姿をとる。四肢は伸び、大人びた体つきとなり、美しい女性へと変化した。僕はそれを見届ければ、シーツの上へと座り直し、マグノリアに向けて軽く両手を広げ、……ちょっと悩んで、あえてこう言う。


「――おいで」


 マグノリアは頷きもせず、迎えられるままに正面からふわりと抱きついた。今日くらい、甘えてほしかった。


「ここに、頭を」


 指先でとんとんと胸元を示せば、マグノリアの頭がずるりと移動する。意図を察してもらえたようで、僕の胸板に耳を当てれば、ふわふわのまつ毛の隙間から、菫色の瞳が僕を見上げた。


「鼓動が聞こえる」

「今日まで生かしてくれたからですよ」


 そっとマグノリアの頭を撫でれば、とろりと眠そうに目が細められる。ああ、本当に、愛おしくて仕方がない。


「……あたたかい……」


 マグノリアはゆるく微笑んで、小さなあくびをひとつした。



 もうこの身体で思い残すことは、何もない。

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