38 足跡
――助けて! 熱い!
――火元は何なんだ! 早く消火を! 水を!
「あ……あ……」
ムウさんにとても良く似た少女は、混乱のために視線を彷徨わせる。
――あんたがやったんだろ、マグノリア!
――だから長耳人なんて引き取るなと言ったのよ!
「ちがう、ちがうの、わたしは」
――黙れ!
怒声を浴びせられ、少女・マグノリアは思わず身をかがめた。後ろでまた土砂が崩れる。
――ちっ、また!
「火をけ、消さないと」
――お前の変な力で逃げ道を塞いでいるだけだろう! もういい、何処かへ行け!
マグノリアは言われるまま、燃え盛る山へと走っていった。
足を熱し、肺を焼きながらも走り続け、山を超えたところでとうとう気力が尽きて、倒れ込む。月の光が、何者かの影によって隠される。
――なぁ、何してんの? 嬢ちゃん。
「わ……わたし……わかんない……」
――分かんないか~、そっかそっか。
人影がぼろぼろのマグノリアの顔を覗き込む。その時、月光にはっきりと表情が照らされる。
童顔の成人男性。金の短髪、そして僕と同じ金の瞳。その額には、ムウさんよりも大きな二本の角。男性は少し驚いた表情をして、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。唇の隙間から、大きな牙が覗く。
――ふうん、いいね。オレ、ニコっていうの。わかる?
「えと……」
――助けてほしい?
「た、助けて欲しい、です」
――嬢ちゃんさ。オレのとこまで来たら助けたげる。嬢ちゃんなら追ってこられるだろ?
「どういうこと、ま、待って……」
そのまま、ニコ様はマグノリアを置いてすたすたと歩いていった。足跡に煌めくマナを流し込みながら。
行く当てがなくなったマグノリアは、マナの足跡を辿り、村や都市の貧民街へとたどり着く。労働力を搾取され、奴隷として扱われ、また逃げた。それを何度も繰り返した。
……映される景色はどれも凄惨だった。目を塞ぎたくなるような記憶ばかりが抜き出され、紙芝居のごとく断片的に語られた。映されない景色は直接脳に流れてきているから、僕が見ているこれらは、きっと、本人が特に手放したかった記憶たちだ。
戸籍も身寄りもないマグノリアは生きていくために、春を売り、倫理を売り、人を売った。皮も爪も尊厳も、何度も剥がされた。菫色の瞳はだんだんと曇り、とうとう誰をも敵に回せば、薬物へ縋ってまで命を繋いだ。
場面が切り替わるたび、景色の中のマグノリアの背が伸びていき、成熟していった。何年も、何年も、どこまで続いているか分からない足跡を追い続けながら、マグノリアは独りで生きることを強いられていたのだ――そんな事実を突きつけられた。
マグノリアがもう20歳を超えているかと思われた頃。
彼女は手脚を縛られ、崖へと立たされていた。
そして、何の言葉を掛けられるでもなく、まるで屑でも捨てるかのように背中を蹴りつけられ――海へとその身体をまっすぐ落とした。
マグノリアは何も抵抗しなかった。
波は彼女をさらい、崖からどんどんと遠ざけていった。
何度か夜を越したと思われる頃、その身体は浜へと打ち上げられていた。
――見て! 人が倒れているわ。
――脈はあるのか?
――弱いけどある! 私の家へ運んで。
昔の景色だが、そこがシミエ村の近くだというのはわかった。瀕死のマグノリアは担がれ、どこかへ連れて行かれる。
――あっ、ニコ! あんたも手伝いなさいよ。
――ん〜? ケガ人? 病人?
かつてマグノリアに声をかけたニコ様が、ふらりと木の陰から現れる。やはりとも言うべきか、ひとつも老いていないようだった。相変わらず、場違いなまでに軽い調子で答える。
――おお、いつかの嬢ちゃんじゃないの。
ニコ様が、マグノリアの荒れた髪と長い耳を見てそう呟いた。
一命を取り留めたマグノリアが最初に口にしたのは、感謝ではなく許しを請う言葉だった。
「何でもする。あとで殺してくれたっていい。だからそこの男と会話をさせてくれ……頼む」
――オレ? ああいいよ、オレも嬢ちゃんと話したかったから。……なあ、ちょっと二人にしてくんない?
ニコ様の周りに集まっていた村人が、手で払われて散っていく。部屋の中にはマグノリアとニコ様だけが残された。
「私のことを助けてくれると言ったこと……覚えているか」
――勿論覚えてるさ。ずっと追ってきたんだろ? いいよ。この生活に飽きてきたし。
「飽きてきた……?」
――まあまあ、オレのことはいいじゃん。な?
マグノリアは口を噤んだ。最後の気力を振り絞るように絶望で澱んだ瞳でニコ様を見つめた。
――オレに協力してくれれば、生きる金を稼がなくてよくなる。世界中の誰もが、嬢ちゃんのことを忘れて知らんぷりしちゃう。これって魅力的な話だと思わない?
「……本当、なのだろうな」
特徴的な童顔が胡散臭そうな笑みを浮かべる。
神を継ぐことの大きな欠点となる、〝人間だった頃の存在の抹消〟。それを、ニコ様はマグノリアへ救いとして提示した。
血や涙や泥で塗れた人生を送ってきたマグノリアは、その甘言を信じきれずも、受け入れてしまう。
やがて二者は手を取り、地の神を継ぐ儀式を行った。




