37 木蓮
シミエ村はアイドレールからずっと近く、家から半日ほど空を飛べばすぐ着く距離だった。慣れない潮の香りに新鮮な気持ちになる。海岸沿いには点々と家が建ち、その外壁には舟が立てかけられていた。村の中心に近い部分には、小さな港がある。
ゼファ様の家を出てから、もうずっと寝ていない。でも思考だけは冴えていた。きっとこの港には目的地――ニコ様の家はない。
浜辺に沿って横に広がる集落を歩いていけば、段々と胸が重くなる。少し息苦しく、足取りが重くなっていく。独特の威圧感には覚えがある。
(地のマナだ、それもすごく濃い。僕には見えないけど)
息苦しさを自ら追うように、集落から少し離れて佇む家へと近づく。
戸には鍵が掛けられていなかったので、そのまま入った。がらんとした廊下が僕を出迎える。波の音がはるか向こうで聞こえるが、その音以外は全くしない、とても静かな空間だった。
ニコ様がここにいたのはずっと前だろうから、もっと廃屋のように朽ち果てているかと思ったが、実際はどれも綺麗なままの部屋だった。物がよく片付けられており、薄く積もった埃だけがまんべんなくある。まるで10年くらい前まで誰かが居たような雰囲気だ。
棚には幾つもの置物が飾られ、壁には絵画が沢山掛けられていた。幼い子どもの作ったような、誰かの似顔絵や工作の類まである。キッチンには多くの料理道具があったが、調味料や食品などの腐るものは何ひとつ残されていなかった。
(ニコ様は誰かと暮らしていたのかな。……家族、とか)
拾われ子の僕には分からないその情景に思いを馳せる。ゆっくりと歩いて、部屋を巡っては、その生活の輪郭を少しずつなぞっていく。
ふと、違和感に気づいた。
外から見た建屋の大きさより、なんだか家の中が少し狭い気がした。特にこの、誰かの寝室のような場所が特に。
数度瞬きをして、マナへ意識を集中させる。……大きなマナが滞留する中、ごく薄いマナが本棚の裏と壁との隙間へ吸い込まれていくのが見えた。
何かある。
からくり仕掛けかと思い、片っ端から本を抜いてみるが何もない。本棚ごと横から押してみても動かない。反対側へ回り込み、側面をガンと蹴ってみれば――蹴った方向へスライドし、本棚があった位置に簡素な扉が現れた。
迷わずその扉を開け放つ。
ひとつの明るく、狭い部屋があった。中は異国の楽器や飾り物でいっぱいだ。趣味の部屋、といったところか。
中央のテーブルに、一輪の木蓮の花が挿されている。花瓶に水はないが、咲いたままの状態が保たれ、ろうそくのように穏やかに光っている。
動悸と息苦しさが止まらない。思わず膝をつきそうになるほどだ。高い純度の地のマナが、部屋いっぱいに鱗粉のごとくちらちらと煌めき舞っている。
きっとあの花だ。あの花に、魂ごと閉じ込めたんだ。自分の力を用いて。
目眩にやられながらも手を伸ばす。
――収束し、エネルギーを受け取るマナ特性が地。
ならば、その対極にあるのは。
――拡散し、エネルギーを与えるマナ特性の、風。
部屋中の風の素質のマナをかき集め、光る木蓮へ向かって注ぎ込む。抵抗するように、花弁の明かりは強く明滅した。部屋のマナがなくなれば、扉の外からも引っ張り込み、絶えず注ぎ込んだ。
程なくして、こちらに走ってくるような足音が近づいてくる。誰か来たのか。でも、止めるわけにはいかない。人影が、部屋の入り口を遮った。
ムウさんが、そこにいた。
「――セド!」
真っ青で泣きそうな顔で、僕のもとへ飛び込もうとする。
刹那、紙が破れるような音がして、瞬き、木蓮が爆ぜるように花弁を散らした。
「やめろ!!」
絶叫が響き渡る。
静止が間に合う筈もなく、相反する素質のマナがバタバタと部屋を吹き荒らす。僕は無意識のうちにムウさんに駆け寄り、ぐっと抱きしめた。
「やめろ……見るな……」
絶望したような表情で、ムウさんがうわ言のように拒絶の言葉をつぶやく。小さく短い手を伸ばすが、僕に抱えられて何にも届かず、空を切る。
「……セド……頼む、ああ……」
マナの奔流が僕たちの視界を灰に染めていく。辺りが墨絵のように、モノクロームな世界になる。
「――ムウさん」
名前を呼ぶことしかできなかった。ただ抱き寄せて、背中を撫で続けた。
不意に、赤い光に体を照らされ、その方を見る。
向こうの壁一面に知らない景色が鮮やかに広がっていた。
……そこは燃えていた。
ごうごうと巻き立つ眩しい炎が、家屋を焼き尽くしている。
土砂が崩れて、土煙と黒煙が夜空を覆う。
その中心に、深緑の髪の幼い長耳人の少女が佇んでいた。




