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35 継げます

 翌日の朝からひとつルーティンが増えた。


 顔と口内をすすぎ、髪をといて束ね、着替え、そして右手首に飾り紐を巻く。


 今までアクセサリーはつけてこなかったので手首がこそばゆく感じるが、鬱陶しいとはひとつも思わなかった。天然石がキラキラと光り、みずからの存在を主張する。


 フランツからの贈り物を見て、そういえば自分もゼファ様に渡すものがあったことを思い出す。――花祭りで買った黒軸の万年筆。手首の飾り紐のように大きな意味はないが、ただ喜んでもらえればいいな、と思う。



 ゼファ様の居る書斎をノックして、起床の挨拶をする。ペンの音がぴたりと止めば、床の軋む音が続き、やがて戸が開けられて高い位置から見下される。


「起きたか」

「おはようございます」


 うむ、とゼファ様が喉奥で返事をする。のしのしと机へと戻られれば、その大きな手で小さな取っ手をつまみ、足元の引き出しを開けて小さなカードを取り出す。


「通行証だ」


 本当に一日で出来たのか、と静かに驚く。お礼を言って受け取り、上衣の内ポケットへ仕舞い込む。


「ときに、セドは何故あの草原におった」


 問われれば、ゼファ様に来訪の目的を伝えていないままだったことを思い出す。


「元々ゼファ様に会いにアイドレールへ向かっていたのです。……コフ村の村長の訃報を伝えようと」

「そうか。……あいつも」


 僕の話を聞けば、ゼファ様の目が緩く伏せられる。いくつも辛い出来事を背負わせてしまって申し訳なくなるが、それでも伝えねばならないと思った。ゼファ様は数度頷き、有難う、と言って背を向けようしたので、僕は言葉を続ける。


「それと、以前お世話になったお礼ができてなかったから。そのために」

「礼?」

「食事や寝床や服の融通をして頂いて、神力まで教えてくださったじゃないですか。そのお礼をしに来たのです」


 片手に持っていた小箱をゼファ様に差し出す。今回の滞在でもしれっと寝床を借りてしまっているため、こんなものでは足りないかもしれないが。

 ゼファ様はすこし怪訝な顔をして、箱を受け取り、静かに開く。艷やかな黒い筆記具が箱から覗けば、ほう、と感嘆する声が聞こえた。


「こんなもの要らぬというに」

「お気に召しませんでしたか?」

「ああ、違う。我を訪ね、そのまま泊まってゆく者は珍しくなかった。こんな大層なものを貰う程、何か特別なことはしておらぬ」


 少し慌てたようにゼファ様が弁解する。知り合いたての時のゼファ様なら弁解もせず、もっと嫌われるように言葉を選んでいただろうな、と思う。


「大事にしなくていいので。沢山使って潰してくださいね」

「ハハ、確かにな。有難く使わせてもらおう」


 ゼファ様が声を上げてくしゃりと笑う。本来の性格であろうそれが垣間見えて嬉しい反面、取り繕う余裕も今はないのか、と少し胸が痛んだ。


 僕はゼファ様に聞こえないくらいの小さな深呼吸をして、なるべく普段通りに聞こえるよう、一息に言った。



「僕、風の神を継ぎます。……継げます」



 気持ちが揺らいでしまいそうだったから、ゼファ様の表情は敢えて見なかった。その痛切であろう表情を目にしてしまったら、きっとこの決断に自信が持てなくなるから。


「お主、何を言っているのか……分かっておるのか」


 無言で僕は頷く。窓の外、高い空の中にマナの大布が漂っている。


「人でなくなるのだぞ?」

「人でなくなるだけです」


 自分でも怖いほどに淡々と返した。左手で、右手首に掛けられた飾り紐にそっと触れる。


「あとはゼファ様のお気持ち次第です」


 言えた。


 本心や決心を口にするのはやっぱり怖かった。でも言った以上は取り消せない。言ってしまった、言えてしまった。


 ゼファ様の方に向き直り、改めてその目をまっすぐに見つめた。不安が和らぐようにとニコリと笑う。ゼファ様は手で口元を覆って、ぎしりと一歩後ずさった。その紅い瞳がせわしなく床の木目をなぞる。


「……少し、考えさせてくれ」


 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、そっと呟かれた。


 ゼファ様が動揺を隠せないまま、万年筆の小箱を机の上へと置く。僕はきょう初めて、卓上のものを視界に入れた。


 先日のように手記ではなく、紙束と本が置かれている。以前ゼファ様が翻訳依頼として受けたうちの一冊だろう。朝日が翡翠色の表紙を照らし、そこに埋められた橙色の石が光を湛える。特徴的なデザインだと考えていると、急に自宅での会話を思い出した。



 ――そうだな……翡翠色の表紙に橙の石が埋まっている、のも、ない。

 ――現代世語で書かれてないから題は読めない。

 ――内容、は――劇薬だ。



(あれは……ムウさんが紛失していたって言ってた、〝劇薬〟の本……!?)



 僕は机へと飛びつき、本へ食らいつく。


「な、何だ、急に」

「ゼファ様! この本って」

「言うただろう、眉唾物の禁書だと。記憶を封印する手法について記されておる」

「記憶を、封印……?」


 ゼファ様とムウさんの説明が乖離していた。人の道理を無視した内容だから絶対に読むな、翻訳も試みるな、と言われていた。けれどゼファ様は何でもない内容のように話す。


 にわかにムウさんの話が信じられなくなって、禁書を開く。端から端まで知らない言語で読めない。しかしそのとき、鼻腔の奥を自宅の匂いがくすぐった。確信する。間違いない、これはムウさんの探していた本だ。



 ――本当だ。覚えてないんだ。

 ――私はどうしていたっけな。お前くらいの頃は。



 花祭りで見せた、ムウさんの諦めたような表情が頭を過った。

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