18 見るな
ゼファ様の話しぶりからすると、ムウさんが〝マグノリア〟であることは確実だと思っていたのだが、ムウさんはその名前を一切知らないという。嘘をついているようには到底見えなかった。ムウさんが嘘をつくときはもっと分かりやすい。
「ゼファ様が、今の地の神はマグノリアだって」
「本当に知らんな。いつの時代だ? 先代とも名前が違う」
「そう……ですか」
煮え切らない気持ちが腹の底に溜まる。ムウさんは隠し事をしていない、と確信できるために、事実が嚙み合わず、もやもやする。
「でも、ムウさんってゼファ様にお会いしたことがあるんですよね」
「あるが、何で会ったのかあんまり覚えてないんだよな。兎に角、ガキだの女子供だの言われて追い出されたことだけは、ぼんやりと覚えている」
あはは……と乾いた笑いしか出なかった。ゼファ様は上手く言葉にできなくて、多分こんな所へ来るなって言いたかったのだろうと思う。不遜な態度のムウさんと、初対面の人間を拒絶するゼファ様は、確かに相性が悪そうだ。
また手を動かして、作業の続きを行う。いくつか瓶にラベルを貼ったところで、ムウさんが手を止めたまま、机をぼんやりと見つめているのに気づく。
「……ムウさん?」
「あ、ああ。少し、考え事を」
また以前のように物思いに耽るムウさんを見て不安になった。何かあることだけは分かっているのに、それが何の形を取っているのか、ひとつも分からないままだ。
気持ちがずっと渦巻いて、思考がうまくまとまらない。貼ったラベルの端にシワが寄る。僕は手の中の瓶を置いて、ムウさんの肩にそっと手を乗せる。その小さな体躯では僕の手の平を受け止めきれず、ムウさんの肩甲骨まで指が届く。
「……僕が家を出る前まで、そしてさっき。何を考えていたのですか」
いつの間にか僕を見上げていたムウさんの瞳が、不安そうに揺らいで細められる。ただ手を乗せているだけのつもりだったのに、指先に力が入る。
「どうして僕の前から黙っていなくなったりしたんですか」
僕の知らないムウさんになんかならないでよ。
ムウさんの顔の向こうで、窓から差す陽光が遠くまたたく。その穏やかな風景とは反対に、僕の気持ちが、言葉が、淀んでいった。やがて、ムウさんがその小さな口をゆっくりと開く。
「――お前の誕生日から、ずっと古馴染みの中位神へ聞いて回っていた。何らかの神の資質はないか、と」
「僕を連れて行かずに?」
「帰ってきてから、悪かったと言っただろ」
ふと痛みを感じれば、下唇を無意識に噛んでいたことに気づく。慌てて口元の力を緩め、ムウさんの肩から手を下ろす。
「お前は、よく今日明日の天気を言い当てていたからな。ふと天候の神に訊いてみれば、ゼファを紹介された、という訳だ」
風の神の資質があるかもしれないと言われ、直ちにゼファ様の居所や、そこに行くまでの交通手段を調べたらしい。そのため何日も家を空けることになってしまった、と。頭では理解できているものの、どうしても帰ってきてほしかった、という気持ちが拭えない。自分も何週間も家を空けていたが、あれは帰りの旅費がなかったからで仕方がないことだ。
それに――僕はまだ、神になっていない。
「ムウさんは僕が神になることを、どう思いますか。ゼファ様に、神などならなくていいと言われたのですが」
「ならなくていいと言われて帰ってきたのか? 私がお前に素質がない、と言ったときはあんなに食い下がったのに」
「それは――」
それは、何だ。
当然の疑問というように、ムウさんは変わらぬ声の調子で訊く。けれど僕はうまく答えられず、口を噤んでしまう。
ムウさんとともに永久の時を過ごせることを心の底から希っていた筈なのに、もう今は、神になりたいという気持ちを忘れてしまっていた。
どうしてあの日、あれほどまでに食い下がったかもよく分からなくなっていた。
「何故、神を継がなかったんだ」
そんな目で、見るな。
・ ・ ・
もう辺りは夜闇に包まれている。
玄関に転がしていた鞄を片すと、久々に自宅で過ごせた安心感からか、すぐに強い眠気が襲ってきた。ムウさんに食事や湯浴みの準備を整えられないことを伝え、自室でなんとか寝間着に着替え、布団に潜る。ゼファ様の家で借りていた殺風景な部屋とは全く違う、私物で溢れた部屋。
――あのあと、何故神を継がなかったのかと訊かれたとき、分かりません、としか答えられなかった。そうか、と返事を貰って、その後はそのまま日常に戻ったが、あのとき明確に答えられなかったことを後悔している。後悔しているが、考えれど考えれど答えは見つからない。
ふと、僕は今までどのように生きてきたのだろうか、と考える。この間まで確かに神を継ぎたいと思っていたはずだった。かつてゼファ様の家で画鋲の跡や床の傷みなどを探したように、視線だけで僕の生きた痕跡を調べる。
まず目についたのは本棚に並ぶ薬学の書籍と、机の上の紙束。幼い頃、ムウさんの力になりたくて、見よう見まねで手伝おうとしたら怒られた。だから知識を固めようと今日まで学んできた。
次に棚の中の裁縫道具。初めて虹糸草の刺繍をして見せたら、ムウさんが凄く驚いていた。だから道具に拘って、手芸や繕い物を続けている。
そして棚の横の乾ききった砥石。外出時に持ち出す小刀は、その日の食事や薬の材料を採るのに使う。日によっては動物を狩ることもある。相棒のような小刀は手入れを欠かしていない。これも、製薬の手伝いをし始めた時にムウさんから貰ったものだ。
どこを見渡してもムウさんとの記憶が紐づいている。僕は、今までムウさんの為に生きてきて、そのことに何の疑いも持たなかったのだ。ムウさんが、僕の生きる理由のすべてだった。
ぐずぐずとした不安から逃げるように、瞼と毛布で目を塞ぐ。
視界を包んだ暗闇は、僕を孤独にした。




