ある日、誰かが、言ったこと。
眩しさのあまり目が潰れたように思えた。
一瞬だけ見えた世界は一面真っ白で、仕事を投げ出した漫画家の原稿みたいだった。
一体自分の身に何が起こっているのか?
狼狽える俺のそばに何かが近寄ってくる気配があった。
『お前は死んだんだ』
何かの声は水の中で聞く音のようにぼやけていてエコーが効いている。
とりあえず言葉が通じているから獣の類ではない。
「……え?死んだ??」
『死んだ』
言葉の意味を理解した俺に何者かはただそうとだけ伝える。ちょっと冷たい気もする。
『やり直しの機会が欲しいか?』
俺の心の中が読めるのか突然優しい。
「もちろん、やり直せるならやり直したいですよ」
多分、この人?は神的な存在なのだろう。
勘付いた俺は敬語で返した。横から人が頷くような気配を感じる。
目が見えないとこんなにも感覚が鋭くなるものなのか
『では、お前を死ぬ1632日前に戻す。
そこで道理に正しい事をせよ』
「え、せんろっぴゃく?死ぬ少し前とかじゃないんですか?」
今度は首を横に振る気配がする。
『死というものは、小さな積み重ねの結果なのだ。
最期の瞬間を逃れたとしても、また次の死の機会がお前を待っている。
それを人は運命とも言う』
『時に、自分とは無関係なところでもその積み重ねは起こる。
しかし、お前の場合は自分の行いが関与している』
急にそんなことを言われても、そんな死ななきゃいけないような悪事を働いた覚えはない。
……が、おそらくそういう話じゃないんだろう。
バタフライエフェクトもとい、風が吹けば桶屋が儲かる理論もとい、ただその結果に俺の死があるというだけ。本来であれば、呑み込めないそれもこの非現実的状況ですんなり納得してしまった。
『では、お前にチャンスを与えよう』
「え、もうですか?」
『道理に正しい事をせよ』
俺は道にいた。
普通の道だ。住宅街のコンクリート塀とコンクリート塀の間にある舗装路。
この道の先にはそこそこの敷地の公園があるはず。
自分の体を確かめるが、どこも問題はない。慣れ親しんだ俺の体だ。
頭が混乱して、つい近くの足元に落ちている石ころを蹴とばした。
蹴とばされた石がものにぶつかってこつんと道路に転がる。
__俺は戻ってきたのか?いや、そもそもあれはなんだ?白昼夢でも見てたのか?
しかしそれにしてはやけにリアルな夢だった。
すっきりしない寝起きの時の心地で俺はぼけっと道の真ん中に立っていた。
後ろからクラクションの音がして、慌てて道のわきによける。
運転手の非難気な目をやり過ごすと、向こうの公園の方から子供達の声が聞こえた。
__そうだ、正しい事をしないと
公園は住宅街によくある小さな公園で、遊具もシーソーしかない。
そのシーソーに3人の子供達が集まっている。
2人がシーソーの片側を地面につくように押さえ、1人が板の反対側の上に立っている。
近くにある木の枝がその子供の真上にあって、そこに赤い小さなボールが引っかかっていた。
子供はそれをとろうとしているのかありったけ腕を伸ばしている。
__確か子供が怪我したからあのシーソー取り壊されたんだっけ……
俺は慌てて子供らの下へ急いだ。立っていた少年を地面に下ろして、ボールをとってやる。
子供達は突然現れた成人男性に驚いたようだったが、目当てのものを渡されると「ありがとう」と元気な声をあげて喜んだ。
「もう危ない事するなよ」
そう言い残してその場を後にする。
なんだかいい行いをした気持ちだ。
そう言えば、俺はこの少し前に彼女に振られていらいらしてた。それで前回は知らんふりをして通り過ぎたんだ。
きっとこれが巡り巡って俺の死の要因となる出来事だったのだろう。
__これでもう大丈夫だ。
ほっとすると、何だか体の力が抜けて俺はそれからすっかり一度死んだことを忘れて人生を謳歌した。
『道理に正しい事をせよ』
……は?
目が覚めると、あの白い世界だった。
前回と同様あまりの眩しさに目がやられた俺に声は語り掛ける。
そう、この世界に来た瞬間俺は”前回”を思い出した。
「俺、正しい事しました!
子供が怪我するのを防ぎましたよ!!」
それではないと声は語る。
『正しい事をせよ』
俺はまた1632日前に戻された。
もう何回目の繰り返しか分からない。
今回もダメだった。
お年寄りが横断歩道を渡るのを手伝っても、迷い犬を飼い主の下へつれていっても、果ては駅前のゴミを拾いまくってみんなに感謝されたが、それでもダメだった。
膝をつく俺にまた、神的存在が語り掛ける。
『道理に正しい事をせよ』
一体何回目なのか数えるのも嫌になる。ついムカッとして言い返してしまう。
「そんな死んだばかりの人間にいきなり正しい事をしろっておかしいでしょ。
理不尽だ、そんなの」
言ってからしまった、と思った。
天罰が下るかもしれない。
が、俺の体に神の怒りの雷が落ちる事はなく、神的存在は暫く黙っていた後に驚く提案をした。
『では、お助け電話の使用を許そう』
「は?お助け電話??」
『クイズ番組で知人に答えを聞く権利と同じものだ』
……クイズ番組とか急に俗世的だ。だがこちらもなりふり構っていられないので、有難くその権利を享受させてもらう。
何人でもいいという太っ腹な申し出に、俺はずっと前に亡くなったばあちゃんや母ちゃん、高校の恩師から思いつく限り道徳に理解のありそうな人に片っ端から電話を掛けた。
目が見えないのに、目の前に電話があることも、対象を思い浮かべるだけで相手に繋がる事も説明されずとも分かった。
けど、自分が何をすべきなのかは何も分からなかった。
ばあちゃんも母ちゃんも先生も俺の状況やこれまでした事を聞いて力になりたいとは言ってくれたがめぼしい助言は与えられなかった。
電話を切って俺は頭を抱える。
どうすればいいか分からない。
正しい行いとはなんなのか?
結局、そんなもの本当はありはしなくて俺は死ぬしかないんじゃないのか?
頭の中で絶望がぐるぐると回る。
突然神が言葉を放った。
やっぱり俺の心の中が分かるのかもしれない。
『正しい行いは正しい行いだ。
お前は確かに正しい行いをすれば救われる。
何故なら、お前は本来善人であるからだ。
だから、お前にやり直しのチャンスを与えたのだ』
「俺が何か間違いをしたんですか?」
『戻ってからお前は何をした?』
「なにって、いろんなことをしましたよ。
困っている妊婦さんの手助けをしたり、酔っ払いの喧嘩をいさめたり」
『そうじゃない。もっと前だ』
「……子供が怪我しないように、ボールを取ってあげました」
『いや、もっと前だ』
「その前?いや、何もしてないですよ。クラクション鳴らされて車を避けただけで……」
『お前は1632日前の14時37分59秒、道に落ちていた石を蹴ったな』
「……え?」
『その石がなにをした?』
「?」
『石が原因の傷が感染症を伴い、男は視力を失った』
「?」
『男は何をしたわけでもない、ただ道に座り込んで疲れを癒していただけだ』
「?」
『既に過酷であった運命が更に苛烈さを増した。
それも理不尽な、意図さえない、善人が蹴った石によって』
「ちょ、ちょっと待ってください。
あなたが言っているのは、あの道端にいたやつのことですか?」
『……』
何故だか分からないが、憐れんだような目が俺を見下ろしているのが分かった。
でも俺は自分の常識に背中を押されて続けた。
「あれの肌は黄色ですよ?」
差別という概念すら存在しない__ある日誰かが声をあげなかった先の世界。