孤独の棋士 卒業
ついに最終回です。
81話に及ぶ河津稜の戦い、遂に決着。
「俺は孤独じゃない」
そんなこと言ってる奴ほど、周りから見れば孤独なのだが、当人はそんなこと微塵も思っていないのだろう。
河津稜は、物心つく前に親に捨てられた。そこから何年経っただろうか。彼は将棋に出会い、プロになり、努力を怠ることなく、頂点まであと一歩の所まで迫っていた。最初こそ孤独でないという認識だったが、後に孤独であると知り、仲間を作る所まで至った。彼の成長、その成果を示す時。卒業試験でもあるこのタイトル戦、王棋戦七番勝負第七局は、昼食明け73手目6八玉まで進んでいた。
「集中力が切れていると認識した時、既に終わりを告げている。」
味谷は二人の表情に注目している。
「ここまで来れば少しぐらい時間を使っても良いでしょうね。」
74手目、7二銀。
「まぁ11分以内の長考…?ならやっているけどな。」
ネット中継の仕事から戻ってきた羽川が呟く。
「何処かで最後の長考をする。その時、相手に死刑宣告を言い渡す。」
後藤の言う通りだ。最後の詰み逃しが無いかの確認。そこに希望の光が確かにあることを確認する。
マスコミ側もまたかなり白熱しているようだ。
「カメラチェック、出来ているか?容量は大丈夫か?」
彼等の仕事は報道すること。信用できないメディアと言われることが多いので、そうなりたくない人々は、その汚名を挽回しようと心掛ける。
75手目、7三銀成。
「村山優位は変わらずだな。時間もある。」
「ここまでの早指しでミスをせずここまで持たせた。一番重要な場面で時間を使う為に…」
大盤解説から二人が戻ってきた。入れ替わるように後藤と北村が出て行く。
ネット中継でも同じように村山優位で話が進んでいる。
「これは、彼読み切りの体制に移行してますね。」
「ツモ待ちか、ロン待ちか。少なくともリーチは掛けている。」
76手目、5二飛。
「段々と鳥肌が立って来ましたよ。自分もタイトルホルダー経験者ですけど。」
「俺も最初のタイトル獲得の時を思い出したよ。」
新庄も味谷も鳥肌が立つような、そんな対局である。刻一刻と運命の時が迫っている。
77手目、2四歩。考えさせないように河津はすぐに78手目、同歩。
「…村山が長考し始めた。終わったな。」
ポーカーフェイスを保つ。ただ心の奥底では不安でいっぱいだ。
「ここで持ち時間を全投入するんだろうな。」
大盤解説では後藤、北村がこの長考に触れていた。
「志恩、この長考、どう思う?」
「…が勝ちますと最初に言った通り。その通りの結果になった。」
(この手は…詰み逃しがあるな。ならこの手は…?)
村山の心の中は相手がどのような手を読んでいるか、その警戒が大きい。
(こっちならどうだ?この手にこの手なら…詰みしかないか…?いやもう一度。)
二日間のタイトル戦は、心も体も疲弊する。
(クソ、集中出来てねぇな。あと少しなんだ。耐えてくれ。俺の体…)
「村山の顔、今少しだけ変わったな。アイツ、疲れているぞ。」
「まぁ二日制ですからね。誰だって疲れますよ。」
「それはそうだが。」
「ここの詰み確認さえすればもう終わりなんですよ。プロはここで決め切る。」
味谷、新庄といったタイトル経験者は二日制のタイトル戦の地獄のような疲弊感を知っている。なんなら今回は最強と最強の戦いである。
(村山は恐らくこの手を指す。森井と研究してこの手が一番傾向にあるとわかった。)
(河津はこの手を指してくる…仲間との研究会は偉大なんだ…!)
「長考…ここまでされると、相手にも考える時間を与えることになりますが、どうですかね?」
「河津は絶望を味わうだろうな。相手がどの手を指すかあのレベルならわかっている。だから生き地獄なんだよ。」
79手目、6二歩打。使った時間、1時間35分。持ち時間のほぼ全てを使い込んだ。それは希望の光が見えた一番の最善手。彼の想い、王棋防衛という情熱をぶつけた一手だった。
もうポーカーフェイスではない。彼の顔は明らかに疲弊していた。汗も出ている。でも良いんだ。詰みが見えたのだから、それで良い。もうその通りに進めるだけ。どの手順だろうと最後に負けましたと投了を告げるのは河津なのだから。
「あれ。あれ? あれ? あれ? あれ、待てよ、あれ? あれ、おかしいですね。あれ? もしかして頓死? えっと、こういって、あれれ、おかしいですよ。あれー? あれ?」
突然味谷が巫山戯出した。前に羽川善晴の羽川マジックなる逆転術で勝った対局の時の解説だ。
「どうしたんですか?いきなり。」
「だって、この手、コンピュータは読んでいない手だぞ?」
「そんなのよくありますよ。所謂コンピュータ越えの一手。」
「いや、村山のミスだ。後手の7六歩が攻めとして有効だろ?これは受け将棋として一番の展開だよ。」
この時の候補手は8二桂成だった。
「…いや村山がそんなミスすると思いますか?」
80手目、7七銀打。
「河津が初めてタイトルを取った年の王棋戦のトーナメントで戦った時、彼は飛車取りを警戒するあまり勇気を出せず取ることが出来なかった。それで敗北している。」
「村山は裏の裏を読み、それが外れた。相手と違う答えにする時も、よく裏をかきすぎては失敗するもの…」
「あの時もアイツは3時間の長考でミスを犯した。同じだ。あの時と。」
「仲間を得た彼と比較すると、村山慈聖は少し下ぐらいなんですかね?」
「それはわからない。ここで負けようが彼は更に成長する。」
「まだ、気がついていないんですかね?」
「それか俺たちが気がついていないかだ。」
(これで勝つ。間違いない。)
大盤解説では、予想外の一手にお互い困惑していた。北村は「長考後の一手、コンピュータ越えですかね?」と呟いたが、後藤は「いや違う。ミスだ。」と意見が割れていた。
「志恩、やっぱり君の予想通りだったな。」
81手目、5八玉。
(行ける。これで俺は勝つ。)
82手目、7八銀。
(俺に敗北を宣言する。お前の姿が見える。)
83手目、6一歩成。
(決着だ。お前の敗着でもある。)
84手目、6九角打。
ここまで指された時、新庄が口にした。
「自分はこの手が決め手だと思いましたよ。味谷さん。」
「これで確定か。」
「…嘘、だろ…?」
対局中に声がした。記録係ではない。村山の声だ。どうやら気がついたようだ。
その見るからに焦った顔を前に河津は無表情を決め込む。
「どうやら、わかったみたいですね。」
「終わりだ。」
木村が準備を始めた。そろそろ投了が近い。持ち時間も村山はゼロに近い。
102手目の4五桂は、家族が居らず、友達も居らず、仲間も今まで出来なかった苦労人河津稜の躍進、報われたような一手だった。それは孤独の卒業試験合格と形容しても良いだろう。
上を向き、顔を抑え、悔しさを滲ませる。無理もない。彼はあの一手でタイトルを奪われることが確定したようなものだ。
107手目、2三金打。苦しい一手だった。すぐに同玉とされた。2一飛成も虚しく2二飛打。
秒読みの声が響く。気持ちの整理は中々難しい所だが、静かに一言。
「負けました。」
彼の投了で、河津の勝利。王棋返り咲きを果たした。孤独の棋士は、仲間を得て試験に合格。孤独の棋士卒業となった。
控え室にいたマスコミが雪崩のように対局室に入り込む。感想戦の前に軽く質問時間が取られる。お互い既に息切れの様相だが、特に疲弊していたのは村山だ。負けたからだろう。
「…仲間を得たアイツは、もう俺を越えている。本当に悔しい。ここで勝ちたかった。まず、アイツが実践している睡眠時間、俺は今回あまり取れなかった。それが結果として体力の差になり、最後のあの一手に繋がったと思っている。俺の理論は証明され、今伝説を観ている。悔しいけど、清々しい。」
「…正味一人で研究すれば将棋は強くなると思った。しかし、今日の最後は、森井との研究で得られた情報を駆使した。一人でデータだけを観ていたら気が付かなかった人の癖という部分だ。強く成る為に仲間がいるというのは間違いないと実感した。俺の孤独の棋士卒業を今、ここに宣言しよう。」
その言葉はネット中継を通じて全国へ発信された。孤独だった、平凡だった棋士がここまで這い上がって来た。それは成長の素晴らしさを証明していた。
感想戦が行われる。あの時は行われなかった感想戦だ。その中で河津は村山に感謝を伝えた。普段なら、いや、今までならあり得なかったことだ。
「やっぱり、あの時の、アドバイスほど成長できるものはなかった。今までの俺は拒否反応を示すせいで、その答えから目を背けていた。結局強くなるとストイックにやってても俺は口だけだったと実感した。」
仲間を作ること、それは今まで孤独に過ごしてきた男にとって、異様に高い壁であり、未知なる世界であった。ただ、かつて組織との戦いにおいて偶然にもその環境の体験ができた。ただ逃げていただけだと実感させられた。現実を直視しろと。
(そうだ、俺は確かに元々、友達欲しさにやっていたんだ。それがいつの間にか義務になった。俺にはそれしか無く、それが唯一心の拠り所だった。
思い出した。俺が何故将棋を始めたのか、全て目の前の男の言う通りだ。今なら納得できる。)それは孤独の男の心の成長を現していた。
この男に勝つには、自分も仲間を作り、孤独を脱するしかない。敵ばかりでも、それで逃げてしまっては意味がない。その想いでやってきた。十六夜という失敗を経て、森井という成功を得た。努力をしたからこそ結果として返ってきた。純文学がヒューマンドラマに変わった瞬間でもあった。
普通の人なら友達を、仲間を作ることなんて簡単なのかもしれない。ただ、河津稜という男にとっては、将棋棋士、否、人生において一番の転換期となった。
「河津、お前と研究会を開きたい。」
「…いいぜ。」
もう彼は孤独じゃない。河津稜。将棋界の生ける伝説だ。
大盤解説会場へ二人は向かった。後藤、北村もいる中、二人は今回の対局を振り返った。
そして村山が声高々に宣言した。
「ここにいる新王棋河津稜は最強の棋士だ。そして孤独を卒業した!」
「河津の勝利を確信していた志恩も、いつか仲間になれると良いな。」
「施設長は、孤独だった彼を救い出せなかった。」
「確かにそうだな。ただ将棋は結果として彼を救い出した。」
「結局は努力なんだ。そう思った。決めたよ。俺、プロになって河津稜を倒す。それが目標になった。」
伝説の一日が幕を閉じた。憑き物が落ちたように、笑顔が出てきた。まるで施設にいた頃の、無垢だった頃の彼の顔だ。
砂蒸し風呂で汗を流す。そんなことも昔ならあり得なかった。成長して、余裕が出来たのだ。
「お前ら俺が孤独だった時に手差し伸べたか?」
冗談混じりに木村や藤井らを弄っていく。本来の彼はこんな性格だったんだろうなぁと、皆の感想が浮かんでいる。
「こういうのも悪くねぇな。」
「流石二冠は違いますなぁ。」
初めての経験、孤独じゃないという喜び。
ここから先、更に強くなるだろう。
…あなたはぼっちですか?
「俺は違う。かつてそうだったからこそ、断言しよう。」
最強の棋士、河津稜の誕生である。
孤独の棋士をご覧頂きありがとうございます。
ばんえつPです。
孤独の棋士という作品自体は私が高校生の頃に考えた話が元となっており、かなり温存しておいた作品になっています。昔から将棋は好きだったのですが、丁度高校生の頃は様々な棋士を応援していた時期になります。
主人公河津稜の設定はあまり変更点はないのですが、周りの棋士は中々に変更を加えています。当初の話では、主人公の師匠、羽島誠が不正疑惑にかけられて、それが原因で自殺するという所から、不正を仕組んだ張本人(八冠)に挑んでタイトルを奪い師匠の無実を証明するというものでした。当時のライバルは村山ではなく、小野寺渚…の元になった小野寺誠という男でした。なお八冠は別の名前で今の孤独の棋士には欠片すら登場していません。
孤独の棋士のテーマは、孤独とは何かです。最近ではぼっち系というのが流行っていますが、ここまで孤独だった主人公というのも中々無いでしょう。徹底的にヒューマンドラマを排除していった結果が純文学という枠組みへと収めていったのです。
努力とは、仲間とは。そのような部分で教訓にもなれば、幸いです。
残酷な描写があるという設定にしたのは、師匠の入水が引っかかりそうで怖いからというものでした。ただそれ以降も北村駿や星野など多くの犠牲者が出ており、その描写は割と細かくしたので、今となってはその設定は間違いではなかったと思います。
孤独の棋士は年末年始に純文学部門で一位を取っていました。あの時にかなり知名度が上がったように感じます。本当にありがとうございます。
孤独の棋士が81話で終わったのも意味がありまして、将棋のマス目が9×9で81ということから81は盤寿と言われるなど、何かと将棋に縁のある数字なのです。この数字で終わらせようと思ったのは大体60話辺りのことでした。
最初の頃は彼など代名詞をほぼ使っておらず非常に見苦しい文章だったと思います。81話の中で成長したのかなと思います。
最後になりましたが、ここまで孤独の棋士をご覧いただきありがとうございます。外伝作品などはまた考えようかなと思っています。
ばんえつP




