決着の地
いよいよ運命の第七局、この対局で次期タイトルホルダーが決まる…
天候晴れ、心地良い風、爽やかな朝と裏腹に、これから始まる戦いは血で血を洗うものとなる。
王棋戦第七局、村山慈聖王棋対河津稜龍棋。指宿市長の振り駒で、先手は村山に決まった。
静寂が場を支配する。持将棋にならない限り、この対局を以て今期の王棋戦は終了する。
「それでは、始めてください。」
立会人の木村九段の一声で、運命の第七局が始まった。
村山が水で唇を潤し、上を向いて目を瞑る。50秒後、2六歩と指した。
(最終局、正当に行こうじゃないか。小細工無しで。)
後手河津、8四歩。
この手を撮影し終えた記者が会長、立会人と共に控え室へと移動する。一気に静寂に包まれた。本局記録係は、三段の栗浜である。
「彼は運が良いですね。こんな対局を間近で観られるんですから。」
北村が呟いた。本当なら自分が間近で観たい。その気持ちを表している。
「運が良い…か。確かにそうだが、これで三段を突破できなければ、意味がない。無意味な体験になるだろうな。」
味谷は少々辛辣である。
「そろそろ、準備してくださいね、お二人とも。」
これから大盤解説が始まる。二人は着替えてファンの前に姿を見せる。
「で、クラシック狂は、今回のタイトル戦、どのように進むと考えている?」
「…そうだねぇ、ベートーヴェンの代表曲を第九とか運命(交響曲第5番)とか言ったりするような、王道の進み方、自分なら角換わりが良いかなと思っているよ。」
「…よくわからないが、角換わりで行くと。」
「そうだね。個人的には、クロイツェルのような感じの棋譜を期待しているんだけどねぇ…」
7手目、7七角、8手目、3四歩。
「角道が開いたな。」
「さぁ突撃しようか。村山!」
9手目、6八銀。
「まぁ確定演出だな。」
「河津に取らせる方を選んだか。」
10手目、7七角成。角交換である。
「二人はもう行ったようだな。」
「のんびりここで検討しますか。」
新庄、後藤のいる控え室に藤井と木村もやってきた。
「…このメンツじゃ、比較的平和な控え室だろうな。」
「…それは味谷さんがまだ丸くなかった頃の話では?」
「八乙女とかいう観戦記者虐めてた頃だな。」
大盤解説は、かなりの盛り上がりを見せている。味谷と北村、どちらもタイトル経験者。最近引退したとはいえ、この前まで名人格だった彼と、若手のホープの彼。その二人から出てくる言葉にファンは頷きながら聴いている。
老人のファンは「味谷九段は昔はファンにはわからないだろうみたいな雰囲気があったのに、最近はわかりやすい伝え方をしてくれる。印象が変わった。」と話していた。
「俺は、河津が北村としっかり番勝負をしていたらここまで強くはならなかったと思っている。」
「北村ってどっちの?」
「アイツと対局した北村はあのメンヘラしかいねぇだろうが。」
後藤は河津が強くなった一因の一つとして北村が殺されたことを挙げた。
「でも、なんで北村駿と対局し続けていたら強くならなかったと断言できるんだ?」
新庄の疑問に彼はこう答えた。
「まぁ、メンヘラにさせようというのは失敗に終わるだろう。しかし、アイツの棋風は変化球もいいところだ。まぁクラシック狂のお前は変化球タイプだからわからんだろうが、正統派の棋士は変化球と当たると調子を落とすことがある。河津も闇堕ち小野寺の対応にかなり苦戦していたしな。一方村山は比較的正統派だ。今回もザ、王道のタイトル戦だ。だからこそどっちもピークを持ってきている。メンヘラと長い間対局していたら、ここまで強くなるのに更に時間が掛かっていただろうな。いい具合にメンヘラ耐性をつけ、強くなっていったイメージだ。」
「味谷一二三と対局した棋士が、割と調子を落とし気味だったのも、彼が番外戦術の鬼であること、棋風が基本的に独特な所が挙げられるわけだな。小野寺もそれを受けた節がある。」
木村が言う通り、味谷との対局後は、かなりの棋士が調子を落としていた。
「俺は振り飛車党だから、いまいちその気持ちはわからなかったな。新庄もそうだし、北村…太地の方もそうだ。味谷さんは居飛車もするけど、棋風は独特。後藤の意見に頷くのは木村九段ぐらいかな?」
会長もまた振り飛車党、相手の調子を乱すタイプだ。
「…志恩。この二人を見て、どっちが勝つと思う?」
「…施設長はどっちに勝って欲しいですか?」
「そうだねぇ…正直な話、河津を将棋から離そうとしたこともあって、あまり応援できないんだ。だから村山に勝って欲しいという気持ちが勝っている。」
「…多分、彼が勝ちます。」
17手目、4六歩。
「今日は進行遅めですね。」
「どちらも石橋を叩いて渡るを実行しているわけだな。」
「味谷さんってそういうタイプですか?」
「いや、俺は石橋が壊れようが渡るタイプだよ。」
会場に笑いが起きる。味谷一二三が雑談するなど、昔では考えられなかった。
「昔は、連盟対局場でタイトル戦もやっていたのに、最近はそこでやることの方が珍しくなってしまった。将棋人気のお陰だな。」
「確か、藤井さんもタイトル初登場は連盟対局場でしたね。」
「俺だけじゃない。大体の棋士はそうだった。稀に都内のホテルでやることもあったがな。」
将棋冬の時代を知る者は、皆そう呟く。
19手目、4七銀。以下6三銀、9六歩。
「午前中はあまり進行しないでしょうな。」
午後からは新庄と後藤の大盤解説となる。
「折角なので、質問コーナーを始めましょう。」
ファンとの交流である。
「連盟棋士には女性がいませんね。何故なんですか?」
質問が来た。恐らく将棋ファンなりたてだろう。
「プロになるには、三段戦で一定の成績を収めるか、プロに一定数勝利して試験を受けるしかありません。今までも女性プロが生まれるかという所までは何度かありましたが、三段戦を越えられず退会したり、試験に不合格となりプロになることができなかったのです。かつて敵であった組織という場所では、女性を優遇した制度を設けていたようですが、連盟ではそのような制度を設ける予定はありません。女性優遇は男性差別と同じですから。」
日本は男女平等の国である。どちらかを優遇することはどちらかを差別することと同じだ。
午前中は、26手目4二玉の場面で終わった。
指宿市の名物料理が二人の胃の中を満たす。
「…この対局、どちらが勝つと思いますか?」
木村の言葉に藤井はこう返す。
「それは愚問だよ。まだ初日午前。将棋は逆転のゲーム。」
控え室に味谷と北村が帰ってきた。入れ替わるように新庄と後藤が出て行く。
「まだ始まったばかりだというのに、なんだこの異様な雰囲気は。」
「ここまではジャブ程度、アイツが養成機関や育成機関に顔を出していたのも少し気になるな。緊張の中にも楽しもうという気持ち、アレが一番厄介だ。」
「ここからどうするかだな…研究ではここからこう行けば上手く事を進めることが出来るが。楽しむ気持ちを忘れれば、途端にプレッシャーに押し込まれるだろう。俺は何としてでも勝たなければならないが、それを認識し続けるのは危険だな。気分転換、楽しめば良い。」
対局再開、3六歩。
「角換わり腰掛け銀…河津にとっては、あの小野寺渚の公開告白の時のタイトル戦、確か龍棋戦第五局、あの対局を思い出す一局だろうな。」
後藤が大盤解説で、角換わり腰掛け銀の話をした。確かにかつて小野寺渚との龍棋戦、伝説の公開告白を受けたあの第五局も同じように角換わり腰掛け銀だった。その対局は、当時は完全な孤独だった彼が勝利し、公開告白を台無しにしたのだが、今回もまた最終局で同じ戦型となった。違うのは、相手が不死鳥になったことだ。
「後は、組織との五番勝負も第五局で角換わり腰掛け銀でしたね。まぁ彼らには関係ないことですが。」
「あの時、タイトルホルダー村山は病院で戦ってたしな…」
新庄はファンに対してなので敬語を使うが、後藤は使う気配が無かった。
「…村山にとっては虎王戦、谷本十七世…当時虎王とのタイトル戦、第五局で角換わり腰掛け銀がありましたね。」
この対局で、村山は谷本から虎王を奪取している。
「つまりどちらもタイトル獲得の時に使った戦法であるということだな。」
「どっちも研究は奥深く、神の領域…」
(角換わり腰掛け銀…向こうも虎王戦第五局など良い所で出している。ただ俺もこの戦法には自信がある。あの天才のフリした凡人との龍棋戦でこの戦型となって俺は勝っている。)
タイトル戦はまだ始まったばかりだ。
「…あの時、組織と戦った村山と河津、二人が今タイトル戦を戦っている。」
「…そうか、俺が殺害するよう指示した標的と、あの孤独男。」
「今や毒を盛られても帰ってきた不死鳥と、仲間を作った男。どちらもあの時から変わっている。」
「お前も連盟棋士になった。」
「そうだ、タイトル戦は角換わり腰掛け銀。あの時小野寺と高谷の戦いで見られたのと同じ戦型だ。」
羽川聖は、タイトル戦の進捗を父親であり、収監されている羽川善晴へ伝えていた。
「…咲は、元気か?」
「あぁ、幼馴染と仲良くやっているよ。」
「そうか。」
「後悔しているだろ?こんな最高の対局を観られない自分を。」
「…あぁ、後悔しているよ。もしも戻れるなら、選択を誤らないようにしたい。将棋でもそうだ。ミスをした時はいつもそう思う。後悔先に立たずだよ。」
「後悔…この大一番、この第七局でミスをすれば、それはもう異常な程の後悔に苛まれるでしょうな。」
藤井は自分の健システムでタイトルを奪っていた頃を思い出す。
「あの時の相手は、本当に後悔していた。選択を誤ったことに対して、感想戦でも後悔の念しか出てこない始末だった。」
「それは自分も同じですね…」
北村もタイトルの経験者だが、彼は自身が持っていたタイトルを取られた時のことを思い出していた。
「俺も同じだ。」
味谷も、木村も。タイトルホルダーには後悔がつきものである。
29手目、3七桂。
「序盤だっていうのに、この緊張感、そしてワクワク感。なんだろうなぁ。プロ野球の優勝かの大一番とか、そういう時の観客ってこんな感じなんだろうな。」
「明日は更にプロ棋士が集まるだろう。この指宿市がお祭り騒ぎになる。」
藤井、木村の予想は的中するだろうか。
午後3時、大盤解説は再度味谷、北村ペアへと交代する。
「膠着しているな。」
「変化を読んでいる…こんな序盤だと言うのに…」
彼等は序盤から時間を使い、終盤を考えている。全て後悔しない為の手順だ。
7三桂、2九飛。
「村山の方はある程度読んだみたいだな。」
「ここまで読んでも違う筋へ通されたら意味がない。」
王道派の対局は観ていて飽きるという声も聞く。しかしプロ棋士、それもトップ棋士となれば話は別だ。これこそ一番面白いのだ。
45手目、6六銀。
午後6時、封じ手の時間となる。木村が封じ手を告げると、すぐ河津は封じ手を行った。
(すぐに封じた。となると、この手が一番濃厚だが。)
(この手で行こう。恐らく向こうはこの筋を読むはずだ。だからこそ、ここからの変化はこうなる。)
封じ手が終わると、一日目が終了する。
お互いは世間から隔離された世界で一晩を過ごす。夜食を食べながら、ただひたすらに明日の対局のことを考える。この時間は持ち時間の減らない検討時間だ。
「お疲れ様、明日もあるから私と木村はお酒は控えさせてもらうよ。」
指宿市内の飲み屋、立会人と会長はまだ仕事があるので、ノンアルコールだが、他のメンバーは、一応お酒を頼んでいる。
「やっぱり地酒は一番だな。」
「ほう、これは中々素晴らしい。」
こんな酔っ払いの場でも、話はすぐタイトル戦となる。
「個人的には、村山のあの一手が妙に気になるんだよなぁ…」
「2九飛、序盤とはいえ、今まで沢山時間を使っていたのにアレを指すのに使ったのは僅かに1分。やっぱり謎だな。」
「…河津の持ち時間を減らしたいのが一番なのか。」
「そうだなぁ…」
普段の日常とは違い、明日もあるので、二次会は行われなかった。
ホテルに戻り色々と検討を続けていく。
明日はいよいよ運命の日。
一日目終了です。まだまだ二人は互角です。




