決断
ついに決着の時、名人格戦第七局!
名人格になる為に、決断をする…
日本海を背に、石川県羽咋市で行われる名人格七番勝負第七局。味谷一二三名人格に挑むのは小野寺渚七段。名人格戦では、タイトルを獲得すると問答無用で九段に昇段する為、挑戦者が獲得した場合、飛び昇段となる。
立会人谷本浩司、新聞解説村山慈聖。豪華なメンバーで名人格戦第七局は行われる。
検分の際、対局場となる部屋からは日本海が綺麗に見えた。能登半島ということもあり、夕刻には綺麗な夕日が観られるだろう。
「綺麗だな。名人格戦に相応しい。」
「どの対局場も素晴らしかったです。名人格の名に相応しい良い場所でした。」
持将棋でない限り、今期の名人格戦はこれで終わり。一年の最後を飾るのが、この第七局だ。
翌日、改めて振り駒が行われた。結果、先手は味谷。
対局開始まであと僅かの場面で呟く。
「俺はこの対局に負ける、つまり名人格を失うことがあれば、棋士を引退する。」
突然の引退宣言。立会人の驚く顔とは裏腹に、対局相手である挑戦者、そして新聞解説の二冠は、無表情だった。
味谷一二三、渾身の番外戦術。流石である。
テレビの前で対局を観ている河津も同じように無表情だ。
「別にそのまま引退しようがどうでも良い。」
なんなら引退してくれという印象だ。
対局が始まった。初手2六歩。
驚きの一手である。飛車先の歩を突くという定跡中の定跡。しかし、今までこのタイトル戦ではそれを外してきた。初めて定跡に沿う一手を指した。
「最終局にして、王道の一手。これも番外戦術か。」
新聞解説を基に説明していこう。
2手目は、8四歩。居飛車が確定した。
「最終局で王道にされちゃ苦しいだろうな。」
2手目を見て、外に出た立会人がボソッと呟いた。
「最終局だからこそ形振り構っていられないんだろうとしか。」
対局は相掛かりへと進んでいった。お互い深く研究しているであろう戦法だ。
一日目は膠着が続いており、午後に27手目8七歩打に対して、3六飛と飛車を3筋へ移動させていた。
29手目4四角、以下6二玉、3七桂、4二銀、2二歩成と続いて、34手目同角の場面で一日目が終了した。
本当の戦いは翌日だが、序盤から緊張しか無かった。
「味谷も村山風味の対局に近づけている。しかし、どちらも本人を前にすればおままごとに過ぎない。」
その谷本の言葉を聞いた当人は、解説の中で
「贋作は真作に勝ることなし。」
と記載した。
「盤面互角。勝った方が栄光。」
二日目。今日は澄み渡る雲一つない青空だ。太陽が、街を優しく包み込む。
ついに決着の日。外には朝から多くの記者が集まり、迷惑になりかねない状況だ。連盟職員が外で誘導はしているが、数は増すばかりである。
封じ手開封、35手目2四歩打。それを見てすぐに次の指し手を決断した。
対局再開直後、1三桂である。
午前中のうちに44手目まで進んだが、昼食休憩中に味谷は45手目を指した。1三桂成である。
「記録係もいない中、中継のカメラだけが、暴君の一手を見逃さなかった。記録係が違和感を覚え、立会人が盤面を確認し、ルール上問題はないことを確認して再開される。確かにルールとしては問題ない。しかしマナー、モラルとしては問題しかない。」
村山がバッサリ切り捨てたが、彼はこのような戦法を時々取っている。
「彼がこの日繰り出した番外戦術は、引退発言、今番勝負初の定跡、休憩中の着手である。しかし、神童と呼ばれた男はそれに屈する事無く、己を信じ闇の中から一筋の小さな光を見つけ出そうとする。それが望みとなるか、悲鳴がこだまするかは、誰にもわからない。」
対局明けすぐに小野寺が着手、同角。それに対してまたしても時間を使わず6六角と返す。意地と意地の張り合いだが、これは神童の狙いでもある。
性格を棋士の中で一番よくわかっているのは自分である。ならば、どのような行動を取ればどのような動きをするかわかる。大きなアドバンテージとなる。
「俺が挑発に乗っていると思うか?」
突如味谷が話しかけてきた。まるで自分が仕掛けていた番外戦術をお見通しだと言わんばかりの笑顔。
「僕にはよくわかりません。」
2二歩打。
「そうか、俺は既に結末が見えている。俺が防衛する結末が。」
2五飛。
「それは幻です。」
2四角。
「やはりお前は面白い。」
3五歩打。
「味谷さんには負けますよ。面白さでは。」
6四飛。
「そうか…」
7六歩打。
「でも、この勝負は勝ちますよ。味谷さんから僕が勝利をもぎ取り、名人格をもぎ取ります。」
2三歩。
会話は止まった。手も止まった。長考タイムである。
「将棋盤を、手番を通して会話することは良くあることだが、物理的に会話をするというのは滅多にない。中継マイクが拾ったその言葉が、果たしてどちらを真とするのか。」
2時間後、8六歩。無慈悲にもノータイム指し決行。7四飛。
「時間攻めは己を滅ぼす恐れのある諸刃の剣。」
読み間違いがあった際に崖から転落する恐れがある。
62手目、1五角。攻めて来ている。味谷は敢えてわかりやすく動揺して見せた。
「嘘だと言わんばかりの大根役者ぶり。演技だと思わせたいのは、本当に動揺しているからだろうか。」
「味谷さん。わかりやすく動揺させて、演技だと思わせて本当に動揺していると思わせる。そう言う裏をかく演技、小春さんの前ではしないですよね。」
「お前はどうだ?菜緒の前では演技をしないのか?」
「僕はいつでも本心ですよ。病んでいた時は違いますけど。」
立会人谷本が外を眺める。段々と陽が沈もうとしている。まだ日没までは時間があるが、そろそろだろう。
「もうすぐ、長い一年が終わる。」
形勢は小野寺有利へと進んでいた。このまま詰ませられたら勝ち。そうでなければ負けの局面まで進んでいた。78手目、1六角打。79手目、2六飛打。ここで小野寺の持ち時間が無くなった。
85手目の5九金の時には味谷も持ち時間を無くした。記者団もソワソワし始めた。
86手目、3八飛成。次が4九角打。
遂にその時が来た。90手目、4八香打。
間違えることは無かった。
秒読みが終わる頃。味谷一二三は爽やかな朝を迎えた時のような顔で、投了を告げた。日没まで残り20分の頃だった。
立会人が入り、村山も入り、記者団も入る。
マイクが沢山置かれ話を聞き出す。まずは九段昇段も果たした新名人格、小野寺渚。
「…今はまだ、その実感はありません。」
続いて味谷一二三。
「…これで良かった。引退を決意できた。」
!?
記者も村山も谷本も。そして名人格も驚いた。終局後に番外戦術が炸裂した。
「…本当に引退するのですか?」
「言ったろ?負けたら引退するって。小春には既に伝えてある。今頃はお疲れ様って言っているんじゃないかな?」
「…本当ですか?」
「だから言ってるだろ?」
中継でも流れたこの言葉は、すぐにネットを騒がせた。「味谷一二三 引退宣言」と建てられたスレッドはすぐに一杯となった。同じ頃に建てられた「小野寺渚新名人格」のスレッドと共に、将棋界に大きなニュースが二つ飛ぶことになった。神童の名人格というだけでも大きいのに、これで良いのだろうか?
その後の感想戦は正直言って入って来なかった。
「味谷一二三による引退宣言以降は、言葉が引っかかることが無くなった。まるでスケートリンクの上のような、滑る世界へと一瞬にして引き込まれることになった。」
感想戦中、味谷はこのように話していた。
「お前に負けて清々している。こんな天才に負けて。昔は兎も角、今将棋棋士は引退すると言うまで生涯現役ができるようになっている。俺は正直いつまでも現役でいたかった。ただ今はこれで良いと思った。目の前に、日本海に沈む夕日が見えるだろう?次の月というものに主役を譲っている。俺もそろそろお前にこの世界を託さねばならない。ありがとう。小野寺渚。」
その言葉を聞いて思わず涙が出てきた。ずっと慕っていた大先輩の言葉、心に刻もう。
「引退なんて撤回してください!」
「そうはいかないよ。それに引退しても棋士は棋士だ。変わりない。」
感想戦も終わった。小野寺は新名人格として記者会見を行うため、別室へ移動した。恐らくその後、急遽実施されるであろう彼の引退会見。その前に因縁の相手である谷本と、日本海を眺めていた。
「谷本…すまなかったな。」
「…謝罪、ですか。貴方らしくない。」
「引退を決めた今、俺は今まで経験したことのない清々しさを感じている。かつてあれだけ憎かったお前が、今は誇らしく感じるんだ。」
「アレは若気の至り、それで片付けてしまえる。」
「お互い丸くなったわけだ。」
「正直、引退するとは思いませんでしたよ。ずっと、制度で引退に追い込まれるまで、その身が滅びるまで現役を続けると。」
「最初は勿論そのつもりだったさ。ただ、渚を始め、若人の活躍を見れば、老兵は去る時間であると嫌でも感じ取れる。俺は、この選択を誤っているとは全く思っていないし、思うことはない。初代中学生棋士から今、最新の、神童の五代目中学生棋士に負けたのだから。まぁ渚は引退しないでと懇願していたがな。」
「…小春夫人には、なんと?」
引退が決まった今、家に帰って彼女に改めてどのように伝えるのか。
「…そうだな。長い時間を共に過ごして、味谷になると決めてくれた彼女には…」
そこで初めて言葉が詰まった。今までの現役生活が走馬灯のように流れていく。
「…そうだな、ただ感謝。かな。」
「貴方は、奥様に恵まれていた。我々棋士が、はっきり言って扱いに困っていた味谷一二三という男を、完璧にサポートした。途方もない時間を、病める時も健やかなる時も。私のように、花子という…愛する人を間違えプロ棋士としての生活を危うくした女と違い、プロ棋士としての生活を続けていけるように献身的に支え続けた。正直、羨ましいですよ。」
「小春のことをそれだけ褒めてくれると照れるモノだな。」
「俺たちは長野が好きなんだ。あさまに白山にあずさにしなの。他にも色々あるが、様々な行き方をしてきた。今日の対局料は、その旅行に使わせて貰おう。」
将棋界の歴史を作った男が、去る。
味谷一二三九段。初代中学生棋士として、多くのタイトルを獲得し、プロ棋士として長年戦ってきた。
妻の小春とは長い付き合いだ。問題行動もあった彼を支え続けていた妻に、恵まれた環境に、感謝しよう。
この展開は最初から考えていました。味谷一二三九段の引退の話です。
小野寺渚新名人格、そして取られた味谷一二三が引退。元ネタ棋士である加藤一二三九段は引退宣言をせず、最後まで戦い抜きましたが、それは現実の将棋界に順位戦なるものが存在し、それが引退規定に繋がっているからでした。名人格戦ではそのような規定がない為、引退宣言しないと引退にはならないのです。文中の引退の話は、現実の将棋界とは異なります。
次回は味谷一二三最後の対局です。よろしくお願いします。




