ジセイの幻影
味谷一二三と小野寺渚の名人格七番勝負。
そこにあるものは…
最初の頃を思い出してほしい。当時は小野寺渚こそ将棋界の新星で、天才で、ブームを生み出していた。
その後、河津と村山が努力を重ねトップに躍り出た。
いつしか、彼等に劣りを見せるようになってきた。
プロ棋士は誰だって天才だ。その中でも輝けるのが、天才の中の天才だ。
ただそこに行くのに最初から行けた者と長い月日を費やした者がいる。
それだけだ。
第四局は、大阪府大阪市、通天閣で行われた。お互い別に高所恐怖症ということでもなかったので、景色がとても綺麗な大阪の街を見下ろしながらの対局となる。立会人は藤井である。
先手は小野寺、飛車先の歩を突く。カド番、いつも以上に力が入る。
後手味谷名人格、いきなり三間飛車にする。驚きの声はもう無かった。この男ならやるだろうと予想されていた。
「味谷名人格、定跡を知らない人のように、自由に指しますね。名人格の威厳というよりは、名人格故の多種多様な将棋を指すという…」
城ヶ崎と高谷がモニターで確認をしている。高谷のこの発言通り、彼はこの名人格戦で普通の手を指していない。もっとも、普通の手の定義が難しい所ではあるが、多数派でないことは確かだ。
定跡を外すというのは研究を外すということ。二人が研究仲間であるが故、多くの戦法は熟知し、お互いの性格も認知している。外せばそれが無くなるとはいえ、普段指されないのは、他に良い手があるからである。博打と同じだ。
「味谷さん、人は崖っぷちに立たされた時、真価を発揮するんですよ。」
「わかっているさ。俺もお前も、崖っぷちを知っている。そして試している。」
小野寺は第三局から第四局までの間に研究を進めていた。味谷一二三という男がどのような手を指すか。勿論、定跡を外した手も含めて。
「久しぶりに、澤本さんと一緒に研究したんです。」
その手を今、披露する。
「…なるほど。良い手じゃないか。」
指されてすぐ趣旨を理解した。
「アイツが苦戦している。」
「味谷さん、予想外の手だったんですかね?」
「いや、違う。その手を知っているとはと言った様子だ。」
村山研究会、不死鳥はその一手を見て、ギアを上げたと解釈した。
藤井は大阪の街を見下ろしながら、この対局を検討する。
「ここで味谷さんが苦戦するなら、この勝負わからない。」
わからない。つまり神童が取る可能性もあるということだ。
昼食、午後、一日目終了。ギアを上げたとは言っても互角のまま終わった。
味谷の封じ手が完了し、夜がやってくる。
(アイツは、澤本と研究したと言っていたな。確か、あの男はよく…)
澤本は森井一門。つまり村山の弟弟子。彼の棋風は、不死鳥の影響を強く受けている。
(もしも、アイツが、アレの影響を受けた将棋を習得したとしたら…かなり大変なことになる。)
既に序盤も終盤も天才だ。故に彼の棋風を継承すると、第二の村山慈聖が生まれるということである。
「おい、澤本。」
「なんですか?」
「お前、小野寺と研究しただろ?」
「はい。」
「俺と似た棋風になったな。」
「それは…」
「アイツは正直河津ほどの努力家ではない。元が良すぎたから努力はしているだろうが、あの異次元のレベルまでは達せていない。そして俺と似た棋風になったことで、相性が互角になったわけだ。つまりアイツは俺に勝てなくなった。」
今までの棋風なら相性で負けることがあった。しかし、自分と似た棋風になれば、その棋風を一番知るのは自分である。つまり負けることは無いという認識となる。
この対局の三日前、龍棋戦の挑戦者が決まった。小野寺渚が村山に勝ち挑戦権を得ている。この時はまだ彼の棋風だった。
「挑戦権を得た次の日ですね。自分が教えたのは。」
「その次の日は検分。つまり中一日の休みで棋風を染め上げたわけだ。」
「…正直アイツが十六夜に吸われたように、最近仲間という定義を考えることが増えた。俺はその仲間という者がいる人こそ頂点に立つと考えているわけだが、人によってはそれが逆効果になる事案も起きている。」
「…まぁ彼の場合、味谷さんという研究相手が敵なのですから、仕方ない部分もありますね。名人格戦では有効でも、貴方宛なら話は別…」
「そうだ。あの棋風、別に名人格戦ではどうでも良い。俺と戦う時は前の棋風に戻してくれよ…」
「まぁ対局が終われば彼は研究会を再開しますし、元に戻してくれますよ。大丈夫でしょう。」
二日目、村山がやりそうな手を朝から連発する。神童がやるのだから、当然見栄えも良い。
「棋風が変わった。これは本当に神童だ。」
後藤は、中野、白河と共に対局を観ていた。棋風が変わったことでどのような変化があるかコンピュータで調べている。
「うわぁ、これ見るに味谷村山戦の対局結果も参照した方が良いですね。」
「そうだな…」
中野と後藤がコンピュータと睨めっこしている間、残った彼は立会人の尊敬する藤井をじっと見つめていた。
(あの人なら、どんな将棋を指すのだろうか。)
今日はこの名人格の他に城ヶ崎ー杉浦戦もある。残念ながらそちらを観ている棋士はほぼゼロだった。
唯一観ていたのは河津である。プロの対局は全て棋譜を確認する。次の龍棋戦の為にも。
「…村山のような棋譜だな。ただ隙が多い。味谷ぐらいじゃ無理だが、あの男は仕留めるだろうな。俺がアイツを叩き潰すしかない。頂点に立つのは俺だけで良い。」
王棋戦は勝ち進んでいる。絶対に勝って再度王棋を獲得する。メンヘラ野郎からではなく、最強の棋士から奪ってやる。
昼食休憩時、味谷は、今までの村山の将棋を思い出していた。今はあの男と対局していると考えたほうが勝てると考えたのだ。
「あの男なら、ここで以下の手を指す。ならば…」
大阪名物のたこ焼きが口に運ばれる中、良い手も運ばれていく。
午後になり仕掛けを始めた。村山ならこう指す。ならば、この手を指せばいける。既に相手を不死鳥と考え指している。
「やっぱり、棋風改造に合わせてきましたね。」
「勿論だ。俺は今村山と対局しているつもりでやっている。」
「…でも、僕が教えてもらったのは村山さんじゃなくて、澤本さんですよ?」
「あぁ、でもアイツもまた森井門下、そして村山慈聖の影響を強く受けている。」
「強く受けているのと本人は別物です。僕と味谷さんが同じ将棋を指さないのと同じですよ。」
それはそうだ。今目の前にいるのは小野寺渚であって村山慈聖ではない。ただ長年の研究が、研究相手であるという事実が、彼を彼として認識すれば負けると教えている。
誘惑だと認識しなければ、自分は負けるだろう。
「なかなか良い研究相手だな。」
互角ではあるが、味谷側の方が指しづらい印象を受けていた。しかしその中でも勝負手を出し続けているのは流石としか言いようがない。
終局まで残りわずかといった局面だが、ここで勝負手がダイレクトに突き刺さる。
「味谷優勢、ストレートか。」
白河がボソッと呟いた。それを聞いた二人は
「名人格戦も落ちたな。」
と呟いたり
「ストレートはつまらない。」
と呟いたり。ストレートは最短決着。当然のことだが、研究材料となる棋譜も減る。
そのまま投了間近まで進んでいく。
「気持ちの整理でしょうね。」
藤井も準備を進めている。記者組も同じだ。
「5六歩。」
気持ちの整理、プロであっても時間がかかる。大きな舞台だと尚更だ。
「ん?5六歩?」
「よく村山さんが指す手ですね。」
「あぁ、普通過ぎて見逃していたが。」
「やっぱり隙が多いが、これぐらいの敵なら大したことはないな。もう一つは杉浦が勝って六段昇段。城ヶ崎の自滅でつまらない対局だ。」
気持ちの整理だと思われていた手は、仕留める一手だった。
「慢心したな、味谷一二三。」
「腐っても神童。恐ろしい子。」
「終わりだ。」
その事実を知った時、気持ちの整理が必要だったのは自分の方だったと、嫌でも思い知らされた。
特に逆転負けの時のショックは大きい。
秒読みの声が、投了促進に聞こえて仕方ない。
でも仕方ない。ルールだから。その声が止むことは無い。
「…負けました。」
幸いなのは、相手が自分のことを慕っている可愛い孫のような男だったこと。
それだけだ。
「こりゃ、わからなくなってきましたね。」
「…まだ一局返しただけだろ。」
しかし、五局目、六局目も続けて名人格は落とした。流れが変わった。間違いない。
第七局は持将棋以外、次期名人格が決まる対局だ。
谷本立会人の元、行われる。
研究によって棋風改造をした小野寺が一勝を挙げました。
しかし、味谷相手には有効でも、村山や河津相手にはかえって弱くなったと言います。
研究こそ進化の近道。
果たして、どうなるのでしょうか?




