行方
虎王戦 決着へ…
味谷は回想する。
長い棋士人生の中でいくつもの事件の当事者となった。
今から何十年も前の話だ。
当時十王戦というタイトル戦があったのだが、そこでタイトルホルダー谷本と挑戦者味谷という構図が発生した。その一年前に上座事件を起こしていたが、因縁の対局して新聞記者は多く集まっていた。
当時タイトル戦の対局場として選ばれたのは旅館であった。しかし閑古鳥鳴く廃業寸前の旅館であった点は留意事項だ。
女将は長年ここに仕えていたのだろう。暖かい応対であった。
検分も終わり立会人大山が去り、お互いも自室に戻る所だった。
「この旅館、潰れかけだが連盟も金が無いみたいだな。」
味谷のこの発言に谷本は激怒した。
「てめぇ、ご厚意で対局場の提供をして貰っているのにその対応はなんだ?」
「あ?俺に楯突くのか?」
「あぁ、上座事件の時のように、俺はお前を殺す。社会的に。」
「ほう、やってみろよ。」
その発言と同時に谷本へ殴りかかる。彼はそのままかなりの距離飛ばされた。全体重をかけたタックルである。
「ほう、社会的ではなく、物理的に殺されたいようだな。」
年長者に対しても容赦はない。目の前の害悪に立ち向かい、顔面に一発を入れた。
味谷から鼻血が出る。床を真っ赤に染めたが、彼は笑った。不敵な笑みだ。
「ほう、この弁償代はお前が払うんだろう?」
「その血は誰の血だ?」
お互いが殴りかかったその時、背後から声がした。
「お前らやめんか!!」
立会人大山である。若い頃は味谷以上に暴れていたという逸話もあり、この殴り合いはここで終わった。なお対局は谷本がストレートで勝っている。
「それに比べたら、最近は一部除いて大人しくなったものだ。」
このレベルの殴り合いはもう河津ぐらいしか起こさない。平和な連盟を見てから空を見上げて
「大山さん。今の将棋界は平和ですよ。」
と呟いた。
「大変なことが起きました!!」
直後吉池が走ってくる。
「小野寺 ついに一勝!」
虎王戦、天才がついに元に戻った。
その後も二連勝で、闇堕ち時期の遅れを取り戻した。第七局、最終局までもつれ込ませた。世間は少し前までの評判を掌返し。神童の勝利を望む声が高くなる。それを待っていたと言わんばかりに不死鳥はその目を輝かせ、研究をしていた。
最強の相手と戦える喜び。それを感じられる相手は素晴らしい。
孤独男も天才帰還によってこの虎王戦、第四局以降の棋譜をひたすらコンピュータにかける。
「相性の問題もあるのかもしれない。俺が本気を出しても勝てない村山と勝てる小野寺。そういう考えはやめた方が良いな。」
仲間がいなければ俺に勝てないと言った彼といなくても勝てた彼。本当に奥が深いと感激する。
第七局、立会人は味谷。既に回復した彼を見て、この男の立会は問題ないと判断された。
「この旅館…」
つい最近、この旅館を思い出した。そう、谷本と殴り合った潰れかけだった旅館。幸か不幸か、あの事件後将棋ファンが泊まるようになり、女将の評判も良かったことで経営回復。今では普通に綺麗な良い宿となっていた。
奥から100歳は越えているであろう腰の曲がった女将が出てきた。味谷は彼女を見てあの時の女将だと直感が働く。そして条件反射で謝罪した。それを聞いた女将は「味谷さんのお陰でこの旅館は復活したのですから、もう大丈夫ですよ。」と暖かく許してもらえた。
「…それに、その後も二件、同じようなことがありましたから。」
女将曰く、10年前に羽島誠と萩原伊吹が、6年前に当時養成機関にいた河津稜と隣の宿泊客が乱闘をしたという。
10年前の羽島誠と萩原伊吹の乱闘はタイトル戦の対局後、当時の立会人中原が帰った後に発生した。実際この時の対局は羽川と萩原であり、羽島はあくまで対局を観に来ただけである。その場には藤井や北小路もいたという。血の気の多かった羽島は、決勝戦で負けた萩原から麻雀の誘いを受けたが断り、これがきっかけで乱闘に発生した。「一二三浩司の乱闘」と言われた例の事件にあやかり、「誠伊吹の乱闘」として将棋ファンでは有名になったそうだ。以後、羽島と萩原は和解することなく向こうの入水で幕を閉じた。
もう一つの河津と隣の宿泊客の乱闘は、羽島が止めたという。かつて乱闘の当事者だった者が仲裁に回ったということだ。とは言ってもこれは偶然の出来事であり、スパルタ教育中の彼は当初仲裁するつもりは無かったというが、宿泊客が向けた包丁に対し河津がそれを認識していないかのように殴りかかり、揉み合いの末宿泊客に包丁が突き刺さりそうだったので、仕方なく仲裁したという形だそうだ。孤独男は宿泊客が息絶え絶えとなるまで殴ったようだが、向こうが包丁を持っていたことで正当防衛となった。つまり宿泊客の方が逮捕された。なおその時の刑事は岸辺だったようだ。
(この旅館は、将棋と深く関わりがある…)
決して良い事ではないが、今ここで営業しているのは乱闘あってのことだ。
「今日の対局者はそのような乱闘は起こしません。特に小野寺は間違いなく起こしませんので、ご安心ください。」
敬語で丁寧に小野寺を売り込んだ。
対局室は、あの日と同じ「あすなろ」の間だった。
「今日は新聞解説の棋士も来ているのか。」
赤島が担当するようだ。
最終局は再度振り駒が行われる。村山の振り歩先で、女将が振った。
「とが四枚で、小野寺先生の先手です。」
記録係から小野寺先手で始めるように指示が出る。今回もしっかり二人体制である。
「どこか愉しげな様子のタイトルホルダーは、この対局を待っていたかのような出立だ。」
以降、赤島の解説と共に対局を見ていく。
「一方の挑戦者は第一局とは別人、マインドコントロールが解け病み上がりを終え、勢いをつけてこの対局を挑む。闇堕ちというマイナスから上がったことで、助走距離は、村山のそれを大きく上回る。」
「定刻になりました。始めてください。」
「お願いします。」
「お願いします。」
二人の挨拶を経て、飛車先の歩を突き居飛車宣言。
戦型は角換わりへと進んだ。向こうにとっては第三局のリベンジである。
「仲間がいる者同士、最強の戦いが出来る喜びを。」
「村山さんは仲間を大事に、大切に考えていますね。自分も同感です。」
…はっきり言おう。ここまで最高峰の戦いを魅せられると孤独男も仲間を作ることが強くなる一番の近道だと考えざるを得ない。
ただそれは、今まで一度も友達ができたことのない彼にとって、会社の内定を取ることよりも大変なことであった。
「…仲間、か。」
「…必要なんだろう。多くの研究を同時並行で行えるとすれば、仲良くするという時間のロスをカバーできる…今までそのようなモノを作ることはしなかった…いや、出来なかった?俺は何故プロ棋士になろうとしたんだ?何故将棋を始めたんだ?何故…?」
悩みに悩んだ。その直後、目の前に羽島誠の顔が浮かぶ。奥にいるのは、施設長か?
「友達が欲しい…」
奥で呟いているのは、幼き日の俺か?友達が欲しい?本気なのか…?
周りの子供は見向きもしない。サッカーなどで遊んでいる。
下を向き駒を並べる。
「…そうだ、俺、友達欲しさに将棋を始めたんだ。」
施設長が本を渡す。長いこと読まれていない将棋本。
「こんな本、面白くもないだろうに。」
それでも喜んで読む幼き日の自分。
次は、大会か?確か、小学三年生の頃、施設長に連れられ始めての対人戦をした。そこで惨敗した。
そうだ。そこで、師匠と会ったんだ。
「河津、諦めはついたか?」
「いや、むしろやる気になった。」
そういえば、プロ入り当初は対人戦の経験が薄くて負けることもあったっけ。忘れていた記憶が蘇る。
「お前、俺の家に来ないか?」
そうだ。俺は、この一言で師匠の家に行った。スパルタ教育で苦しい日々だったが、プロ棋士になることができた。
俺は平凡な棋士だった。それを努力で覆し、今タイトルホルダーとなった。
そうだ、努力したんだ。沢山、辛い日々を過ごしたんだ。
「友達作りぐらい、努力してやる…!」
飛び出した。東京の連盟対局場なら、棋士がいるはずだ!
研究を放置して、友達作りを行う。そんなこと、今まであっただろうか?いや、無かった。
タイトル戦は昼食休憩を迎えた。ここまでは互角である。
「これだけの対局が出来ることに感謝せねば…」
東京の対局室には、北村、杉浦と十六夜がいた。三人で研究をしている。
「控え室なら、誰かいるはずだ!」
突然扉が開いた。驚いた顔で河津を見る三人。急にドアが開いたら驚くだろうが、それ以上に孤独の棋士がいたことがそれに拍車をかけた。
「河津…何しに来た?」
「…率直に言う、仲間になってくれ!」
予想外の台詞に言葉が出ない。
「…は?」
「…どういうことだ?」
「…ん?」
「…研究仲間になってくれ。」
上から目線だが、今まで人と関わらなかったので仕方ない。
「…どうする?」
「…僕は反対です。」
「…まぁタイトルホルダーですし」
どうやら賛否両論のようだ。
「俺は杉浦と同じ反対…にする。」
二人が出て行った。残った十六夜は孤独男の方を見て。
「…タイトルホルダーの研究、それが観られるのなら。」
と返した。
ついに、孤独の棋士に初めての研究仲間が出来たのだ。無論、この十六夜という男はタイトルホルダーとして成り上がった男の研究が狙いではあるが、一応は仲間を作ることに成功したのだ。
「…すげぇ、今までの数倍効率が良い…!」
十六夜は他の棋士との研究会をする棋士である。つまりその棋士のやり方全てがここから手に入るのだ。
(これが仲間か、俺が子供の頃求めた友達か。)
タイトル戦は、昼食休憩明け。現在21手目。
「今日は平穏に終わる。問題は次の日。二日目だ。ここで持将棋にでもならない限り、次の虎王が決まる。」
その言葉通り午後は5手しか進まなかった。
東京の対局場控え室から二人が帰宅する。
帰り道、初めての他の人との共同研究の成果を振り返る。
「コンピュータの何倍良い研究が出来たのだろうか。」
千駄ヶ谷駅から電車に乗り、帰宅する。
「騒がしいな。」
閑静な住宅街が今日は騒がしい。
「…は?」
河津は目を疑った。
無理もない。
自分の家から、真っ赤な炎が空へ向かっていたのだから…
「河津さんですか?」
「…はい。」
「貴方の自宅から、火事が起きました。」
家を失った。研究成果も、何もかも。
「…俺、どうすれば…?」
頭が真っ白の中、すぐ連盟に電話をし、連盟対局場の控え室を寝床として使う許可を得た。
幸いタイトルホルダーなので、ある程度のお金はある。しかし、これらは弁償と復旧にあらかた使われるだろう。ひもじい生活が待っている。結果を話すと、保険込みでも自宅の弁償で5000万円ほど、研究設備の復旧で1000万円ほど使い、残ったのは僅かに20万円だった。これで生活は出来るのか。家賃、光熱費、水道代なども考えると、贅沢などできない。早く対局で稼がねば。
一人の棋士がこんな事になっていても、他の棋士は普通の日常を過ごす。
二人にとって、最高峰の戦いを。
午前中は均衡するも、午後になり小野寺が仕掛けてきた。
「研究の道を完全に外れている。」
特急列車のように、いきなりスピードを上げ、一気に終盤戦へ駒を進めた。
(この手は予想外だったな。全く、神童は面白いな。)
劣勢になっても楽しむのは大切なこと。
手駒が減り退路が断たれると、目の前に光があると信じて戦わねばならない。ただそれを苦痛と感じない者が一番強い棋士となる。ピンチに強い男ほど良いのだ。
評価値は小野寺の勝勢を表している。それは見えていない本人でも気がつくほどであった。
ー後一手指せば勝てるー
緊張とプレッシャーから周りが見えなくなる。頭の中は真っ白でフリーズ寸前。それでも目の前にあるだろう光を放つ綱へ飛びかかる。
「油断大敵と、プレッシャーに弱いはほぼ同じ結果を産む。」
綱が切れたのか
そもそもそれは幻覚だったのか
光はまやかしだったのか
「シーソーゲームか…」
評価値は突然心電図のようになった。
そのチャンスを掴んだ者が神から愛された者である。
「掴んだ。」
そう呟いたのは、虎王だった。
それは幻覚では…
なかった。
確かにそれは存在した。
後一歩、手の届く所まで来ていた虎王という地位はもう背伸びをしてもジャンプをしても走っても届かない。
「…負けました。」
心の整理に合計20分、詰み直前まで指し、無念の投了を告げた。
フルセットで村山がタイトル防衛を果たした。そして九段昇段を決めた。
ホッとした顔を見せた。九段昇段もそうだが、一つタイトルをしっかりと防衛したこと。それが心を安らげた。
ただ、相手もまた終わって笑顔を見せた。全力で戦い負けたというその結果がそうさせた。
防衛にてタイトル3期で九段昇段を決めました。
そして孤独の棋士がついに研究仲間を見つけたようですが…まさかの家を失うという事態になりました。
この辺りは今後深掘りする予定です。




