禊
いよいよ始まる第一局。村山は、将棋界は、どのような結論を導き出すか。
「振り駒の結果、先手が村山虎王に決まりました。」
目の前にいるのは闇堕ちした神童だ。不敵な笑みはこちらを見透しているような雰囲気だが、今は己だけを信じよう。
知らぬ間に将棋界を背負う戦いに駆り出されていた。だが丁度良い、証明してやる。俺の持論を、この檜舞台で。
飛車先を歩を突く。向こうは恐らく最初から定跡を外してくるだろう。番外戦術、動揺を誘う為だ。
その道のプロが恐れる程であろうと、俺は惑わされない。ペースをこちらに。俺のやりたい将棋を指す。それだけで良い。
周りの反応とは裏腹に、村山はいつものペースを保っていた。昨日まではいつもと違う雰囲気だったのに、朝を迎えると虎王のタイトルホルダーとして普段の姿へと戻っていた。一晩で決断したのだろうか。それとも自動的に、体が勝手にスイッチを切り換えるのか。それがプロなのか。
不死鳥は覚悟を決めたと想像した。
「村山慈聖…彼は、孤独ではない河津と言って良い。将棋の価値観が似ていると思っている。自分を強くする為にひたすらに努力するストイックさが売りだ。違うのは共に戦う仲間を必要とするか否か。彼らは恋という存在を否定している。人は恋をすると弱くなると考えている。つまり、彼女持ちの小野寺渚と戦うというのは己の持論を証明する機会であるということだ。」
今日は恐らく中継が途切れることはないだろう。谷本は味谷や新庄と共にこの戦いの行方を見守る。
「今日の立会人は桐谷さん。彼は株のプロでもありますが、神童の闇堕ちは流石に予測できなかったでしょうね。」
「…俺ですらアイツを守れなかった。今は会長のあの男と、対局相手である村山に任せるしかない。正直嫌で仕方ないが、これは俺の禊でもある。」
「…人に託すことが禊ですか。」
確かに溺愛していた後輩の今の惨状、責任を感じるのも無理はない。
新庄が部屋から出た。そのタイミングで残りの二人が話をする。
「アイツを操って、何がしたいのか…」
「…操ることが目的なのかもしれない。」
「操ることが…手段ではなく目的だと」
「あぁ、連盟にとって小野寺渚は稼ぎ柱。谷本もお前もそれを前提としていたはずだ。」
「つまり操るだけで悪評が目立つ、それがイコールとして連盟の評判を下げることに繋がる。」
「東浜を操っていたのは」
「カモフラージュか、或いは…」
やはり今回の騒動は連盟の評判というものを下げる為に起きていると考えているようだ。そうなれば真っ先に疑わしき存在として挙げられるのは組織だが、既に解散済。なろう系のような能力で相手を操りますなんて行為出来るわけがない。マインドコントロールは、定期的に会って解けないようにすることが大切である。当然、逮捕済の羽川なども犯人から除外される。
「…恋」
「は?」
「いや、恋は人を間違った方に導くなんてことを村山か誰かが言っていたのを思い出して、犯人は小野寺の彼女なんじゃないかと。」
「…そもそも連盟を陥れるという考え自体間違っていて、ただおかしくなっただけと言いたいのか?」
味谷は受け入れられなかった。妻の小春と共に小野寺渚と同じぐらい可愛がっている赤羽菜緒、そんな彼女が犯人だという前会長の考えは自分に間違っていると言い聞かせたくなるものだ。小野寺ブームの時の会長の発言とは信じられない、いや信じたくないのだ。
「失礼。」
聞き慣れない声がした。
「お前は誰だ?」
味谷が問い掛ける。
「組織犯罪対策部から捜査一課に異動になった広瀬だ。」
星野が殺害されたことで、人員不足に陥っていた捜査一課、警視庁は、組織犯罪対策部で実績を挙げていた広瀬を一課へ異動させることになった。松岡とは同期のようだ。
「それで、話があるんだろう?」
「味谷一二三だけに話す許可が出ている。」
「…犯人と思わしき人物についてだ。」
「…以後この話は内密に。」
「…これが本当なら大変なことになる。…連盟としても、色々と考えなければならないだろう。」
心のケアというものは、難しい。自分では良かれと思って行った行為が、相手を追い詰めることもある。故に細心の注意を払って進める必要がある。
戻ってきて一言
「場合によっては、アイツを休場させることも視野に入れてくれ。」
と呟いた。
「休場で済むなら良いさ。犯罪で刑務所行きになれば休場どころの騒ぎじゃない。ところで、俺は前会長でお前が嫌っている男だが。」
犬猿の仲のはずだが、将棋界の未来が懸かっている状況では呉越同舟だ。
定跡外しは既に予想されたモノだ。だからこそ作戦も立て易かった。現在52手目、かなり早いペースである。
新庄と味谷の会話は過去の栄光の話へ進んでいた。
「もうAIによる研究も役立たない。自分しか信じられない世界だな。」
「まるでかつての大山名人のような棋譜…」
「彼もまた番外戦術の、俺以上に手の込んだ詰め方をしていた。俺にとってあの大山名人こそ将棋界の絶対王者だ。悔しいけども。小野寺にはそんな絶対王者に勝てる可能性がある。だからこそ皆期待する。」
「…羽川さんは超えられると思わなかったんですか?」
「アイツはダメだ。確かに持ち時間の短い棋戦に置いて、俺や中原十六世、米永、大山名人を立て続けに撃破したが、あくまで持ち時間の短い棋戦だ。名人格挑戦者決定リーグじゃ、大山名人が、突如予選とも言えるリーグ戦を二日制に勝手に決めて羽川を動揺させ、惨めな棋譜を残す羽目になっている。」
「当時は会長でしたっけ。今では許されないでしょうね。」
「俺ですらそんなことはしない。河津など嫌われ者相手でも流石にやらない。」
昼食休憩。記録係はタイトル戦の異様な空気に飯が喉を通らない。
一人研究の限界というのを村山は知っている。確かにある程度の所まではいけるだろう。ただ本物と当たった時、その孤独な研究は、仲間内の研究に敗北する。
「一局だけならまぐれもある。タイトル戦が番勝負になったのはそれを許さない為だ。予選と違いここに全力を当ててくる。番勝負で俺を倒すなら、仲間は必ず必要だ。」
今回のタイトル戦は特例として立会人、記録係1、小野寺が同室、記録係2、会長、村山が同室という形となった。一人にさせない為である。村山は独り言の体で記録係にアドバイスを送る。
(今の挑戦者は孤独だと言いたいのか?)
確かに味谷と関わりが希薄になっているようには感じるが、孤独男ほどではない。
(強くなる為には恋はいらない。仲間は必要。それが彼の信念だったな。)
一方の挑戦者側は記録係が心の中でメンヘラというのはこういうモノなのかと考えていた。正直メンヘラとは何かと言われると回答に苦しむが、マインドコントロールはメンタルがやられているという捉え方をした場合、メンヘラとして認めても良いのかもしれない。
人と言うのは必ず何かしらに依存をするが、依存先が多ければ重くならず健全な関係を構築しやすい。逆にそれしか依存先がない場合、それを失えば命に関わる為、必然的に重くなり、健全な関係は結べなくなる。その理論なら河津も依存先は将棋しかないということになるが、無機質相手と彼女など人相手では当然変わってくる。つまり、孤独の棋士、河津の依存先が彼女といった者だった場合、間違いなくメンヘラになっていただろう。
一日目午後は数手しか進んでいない。殺伐とした空気とは裏腹に棋譜はのんびりとしている。
「…岸辺さん。こっちは準備完了です。」
「…そうか、…捜査一課、星野君の仇を討て。」
二日目、朝。
「株価上昇、犯人逮捕か。」
立会人桐谷が、呟いた。無論、対局者には伝えていない。現地にいる木村会長に告げたのだ。
同時刻、味谷からも犯人逮捕の一報を受けた。
警視庁では、既に犯人の目星を付け、尾行を続けていた。小笠原の判断で味谷にだけ詳細な捜査情報を教えたが、他のメンバーは憶測だけで実態を掴んでいなかった。
広瀬は先輩の岸辺と共に、松岡は小笠原と共にそのホシの元へ、少しづつ囲いながら近づいていく。星野の仇を討つ為に。
「殺人教唆で逮捕する。」
マインドコントロールによって人を操り刑事を殺害した。これを殺人として認めるかどうかはまだわからないが、とりあえず間違いない罪で逮捕をする。
「大人しくしろ!!」
ここにいる刑事の目は本気そのものだった。無念を晴らす為に戦ってきた男の目だ。
「刹那孝明!!」
「…なんでかなぁ。自分が一番有り得ないじゃん。」
刹那は例の五番勝負後、将棋を恨むようになっていた。本当なら羽川へ復讐をする予定だったが、当人は逮捕済、接触すら不可能だった。
そうなれば、連盟棋士を追い詰めるのが一番だと考えたようだ。
「東浜?あぁ、練習台だよ。」
その言葉を聞いた瞬間、松岡は思い切り頬を叩いた。
「練習台だ?お前がやってるのはただの人殺しだ。練習台にされるのはお前だ。」
動機が適当な人は一定数いるが、それが一番恐ろしいのだ。
なおこの逮捕は、東浜に情状酌量の余地が生まれることを意味していた。本人の意思かどうかの部分においてマインドコントロールという事実が認められるのなら、もしかしたら彼はまた将棋界に戻ることが出来るのかもしれない。勿論、治療は必要ではあるが。
ただ逮捕されたから終わりという話ではない。精神が疲弊しているというのは事実であり、東浜同様、小野寺の治療も必要である。あくまでこれ以上悪くならないということだけが確かなのだ。
「治すにはどうすれば。」
新しい刑事に広瀬と岸辺が出てきました。元ネタは広瀬九段…と言いたい所ですが、某スタンドのアレから取っています。
刹那が逮捕されました。実際のところ、話は終盤戦へ進んでおります。ある程度物語の軸を決めて連載をしているのですが、実は既に結末近くまで話の筋を考えております。




