孤独VS神童
ついにあの天才と戦います。
河津は睡眠改善後、少しづつ勝率を上げ、7割に達することができた。ネット掲示板でも少しづつ河津の名前が出るようになり
「河津って平凡から平凡以上になったんか?」
「誰とも交友関係が出てこない哀れな棋士、将棋はちょっとは強くなったか?」
「モブだったのになぁ」
と言われるようになる。良いことなのだろうか?
今日の対局は赤島と萩原伊吹の一戦。萩原は七段の棋士で、振り飛車党。穴熊攻略のプロである。ついでに麻雀もやっているようで、そちらでもプロとして活躍している。
「未来くん、俺は麻雀と将棋だけは負けたくない性格でね。別に身長とかで負けるのはどうでもいいんだけど、この二つだけは負けるつもりはないんだよね。」
「伊吹さん、俺だって負けるつもりはないですよ。プロですから」
2人のバチバチとした目線は記録係にも伝わる。今日の記録係は中野である。
検討室に木村と谷本、新庄がいた。木村と谷本は免状の署名の為、新庄は単純に研究目的である。会長と、名人格にいる棋士、虎王のタイトルを持つ棋士は、免状に署名する。木村は龍棋のタイトルの他に名人格も在位している。会長であり、虎王の谷本は言わずもがなである。
「さて、今日はのんびり行きましょうよ。頓珍漢なことでも問題ない。」
木村の発言のように今日のメンバーは、谷本除いて的外れな事を言っても和やかになるメンバーである。
「クラシック流したらダメですかね?」
「流石に無理でしょうね。」
「まぁとりあえず、木村君も新庄君もやりますよ。」
盤面を用意して検討をする。萩原はよく新しい戦法を考えたりする。研究のネタとするために観にくる棋士は多い。
少し経って藤井と白河もやってきた。検討室はこの前と違い賑やかだ。
「ここで6筋とか良いんじゃない?」と新庄が言えば
「それじゃ赤島が詰む筋ばかりじゃないかぁ〜」と木村が言い
「お前赤島アンチかよ〜」藤井が続ける。
白河も入りやすいのかよく口を出す。
検討室はその場にいる人によって左右される。明るい検討室もあれば冷酷な検討室もある。
夜遅く、萩原の勝利を見届けて、検討室のメンバーは夜の街へ繰り出す。木村などは居酒屋で宴会を楽しんだ。
さて宴会など呑気にやってられない人もいるわけで。
次の日、河津は対局場に来ていた。それなりに勝っていた王棋戦の挑戦者決定トーナメントである。この日、カメラは対局場に多く設置された。初めての中継である。別に河津を撮りたいのではない。この日の対局相手を撮りに来ていた。そう小野寺渚。天才棋士である。
マスコミはほぼ全部のカメラを小野寺に向ける。小野寺は慣れた手つきで作業を進める。
振り駒の結果、先手は小野寺に決まる。最強の天才棋士。もしも河津が勝てば大事件である。
「小野寺七段今期の成績8割5分だとよ。」
「マジかよ、てかプロ入りしてから8割切ってないんだろ?」
「既に歴史に名前を残したというのに、まだまだ伝説を作るのか!」
マスコミは小野寺の話しかしない。時の人を何年もしている神童の方がファンや視聴者ウケはいい。
「最近、小野寺七段彼女できたらしいぜ?」
「クラスで1番のマドンナゲットしたっけ聞いたな。」
「今日も彼女さんと寝たって聞いたぞ?」
「はぁ!?同棲してんのかよ!」
マスコミはそんな所ばかり気になるものなのか。河津が一番苦手なタイプである。
対局が始まった。小野寺は横歩取りを選択した。20分後にはもう難解な局面となる。
河津の心は盤面を完璧に捉える。それ以外の情報をシャットアウトする。
検討室は荒れに荒れた。昨日に引き続き木村、谷本、新庄、藤井、白河。そして味谷、村山、赤島。所狭しと並んで盤面を見つめる。昨日のほんわかした気分はどこへやら。ピリピリとした検討室である。木村や藤井、新庄はなかなか口を挟めない。よりにもよってこんな大事な一局の観戦記者となってしまった八乙女華恋は、どうすればいいんだろうという思いで一杯である。八乙女は小野寺の取材を主に担当しており、将棋の詳しい女性記者である。対して河津のことを初めて見た時に「生理的に無理」というなど辛辣な一面もある。勿論、それを記事にすることはないが。
味谷があえて八乙女に問いかける。「この局面、どっちの肩を持ちますか?」八乙女は正直どっちが優勢かわからない。助け舟を出そうにも周りは無表情である。無情である。木村や藤井も口を出せば味谷の標的となる。黙るしかない。八乙女は「小野寺先生…ですかね?」と聞くと味谷から罵倒が飛ぶ。「将棋界取材して何年?」見かねた谷本が「素人さんいじめてどないするんや?」と注意して終わった。先輩に対してこんな口の利き方はどうなのかと疑問ではあるが、過去に上座を巡り戦ったこともあるので、本心では嫌っているのだろう。谷本はプロには厳しいが、素人には優しいのだった。まぁあの場面で助けなかったのは疑問符であるが。
終盤まで互角だったが、小野寺が勝負手を発動、結果ジリ貧となり、ついに河津に詰み筋が発生した。しかしそれは65手詰めという異常な詰み手数である。更に難解な手筋であった。検討室では、詰むかどうかの話が進むが、ここで村山が一言「詰みます」と言った。他の棋士は詰みを見つけられていない。味谷は先ほどの反省から何も発さない。そうすると谷本が一言「どうやったら詰むのかな?教えて欲しいな。」八乙女への態度とは異なり、村山の実力が見たいだけの悪い言葉である。村山は無言を貫く。谷本は負けじと「教えてよ、詰み手順が見てみたいんだ。」先程味谷を叱った人の発言とは思えなかった。味谷は「おい、さっきと態度違うねぇ」と谷本にチクリ。「素人さんを虐めるのは許せないが、村山君はプロだ。」と谷本。「本心でたな。」と村山はボソッと呟き続けて「どうやったら詰まないんだ?」と返した。これは本物だと谷本は感じてしまった。プロ相手に凄いと言わせることは簡単なことではない。プライドがあるからである。表向きはおめでとうと言っても本心では1ミリも思っていないのである。だからこそ感じてしまったことに後悔してしまった。
「どうやったら詰まないんだ?」と言われたその一手を小野寺は見つけることができなかった。いや厳密には見つけたのは間違いなかったが、既に着手は完了してしまったのである。検討室も大荒れ。村山も「この程度か」と下を向く。
河津は相手がミスをして詰み筋が消えた事を察した。とにかく攻めるしかない。受けていれば負けてしまう。16回も連続で王手をかけ、ついに19手詰めまで持ち込んだ。小野寺は河津が読み切っている事を感じていたが、逆転負けの悔しさから形作りを行い、13手詰めとなったタイミングで投了した。「負けました」という言葉は普段よりも気力のない、ボソボソとしたものだった。終局後、小野寺は半泣きで記者の質問に答えた。何故かマスコミは小野寺を泣かせた最低な棋士河津稜と報じた。河津を嫌いすぎである。
検討室から木村、藤井、白河などのメンバーが集まってくる。全員小野寺を心配していた。小野寺は既に将棋界の顔、心配するのも無理はない。
その後村山は憐れみ、谷本は無言で、味谷は小野寺を期待しているからか、一言「ミスはある。お前は強い。」と発した。味谷も小野寺には甘いのだ。小野寺は味谷を尊敬している。そして味谷も孫ぐらいの年齢の棋士を侮辱などできない。いくら同じプロでも。
河津には誰も何も声をかけなかった。八乙女はこの時の事をこう振り返る。
「負けた小野寺の周りは"えん"が出来ていた。円形に囲み、みんなの縁を確認する。ただ演じている棋士も見えた。一部は小野寺へライバル心を燃やしているからだ。
さて河津は気まずそうにその場を立ち去る。追うものはいない。敵役が去っていくように私には見えた。」
河津は小野寺に勝った。大金星である。しかし、それを喜ぶ仲間などいない。師匠が生きていれば、喜んだのだろうか?
ともあれ河津は先に進む。タイトル戦を目指して、ひたすらに。この1勝を無駄にしないように。
帰り道、千駄ヶ谷駅までの道のりは気楽なものだった。負けた時は何十キロともなるこの道が勝った時は数メートルの道のように感じるのだ。
家に着いて、パソコンを開ける。いつも通り研究をするのだが、今日は通販サイトも開いていた。新しい詰将棋の本を購入する為である。今日は、昼ごろ予約が始まった「詰将棋の真意 大道詰将棋プラス」を購入。著者は谷本浩司。会長は詰将棋作家でもある。
大道詰将棋はかつて商売として使われた詰将棋であり、使わない駒、簡単に見えそうな筋は間違いという特徴がある。
主人公とはなんだろう。モブとはなんだろう。
最近はモブが出世する話もよくある。
スピンオフなんてものもある。
河津の出来事より他人の出来事のようがよっぽど多い。ここの主人公は誰なのか。
「将棋界の主人公は小野寺なんかじゃねぇ。俺だ。」
最近、元ネタの性格から離れるようになってきました…すみません。
「素人さんをいじめてどないするんや」は元ネタ棋士の話から持ってきているので、合っているんですけど(言われた棋士は別人です。)、その後の「村山君どうやるの?」は元ネタの棋士ではありません。それに対しての回答は村山の元ネタの棋士の言葉ですが。
味谷も性格悪いキャラみたいになってしまったので、ここいらで少しいい事をさせました。前回悪いキャラにしてやりすぎたというのが実情です。
ここだけの話、木村は沈黙が続いたら自分が答えるつもりだったようです。その前に八乙女が言葉を発したというのが真相です。味谷は先輩棋士ですからなかなか言葉を挟めないんですよね。