悪魔
虎王戦挑戦者決定戦です。
敗北してすぐの挑戦者決定戦はあまり良いものではない。目の前にいる男からタイトルは取ったが、もう一つのタイトルは奪われた直後。良い波ではないのは間違いない。
「なんだ?俺の醜態を嘲笑いに来たのか?」
何故か味谷がいる。彼は例の騒動を知らないので、何故ここに居るのか知る余地もない。最も他の棋士も真の理由は知らないが、対局相手が仲良い人とその男の顔を見ればある程度察することはできる。できないのはこの男ぐらいだ。
「対局を観に来たら駄目か?」
「テメェは番外戦術と言っているだけのただの老害だ。家に帰って嫌がらせでも考えておけ。」
「そうか、ならばお前に嫌がらせをする為に対局を見学しよう。」
虎王戦挑戦者決定戦はいつも通り千駄ヶ谷の対局場で行われる。対局場に入ると既に下座に小野寺が座っている。
「不気味な笑顔しやがって。」
河津のいつも通りの悪口ではなく、本当にそのような顔をしている。
当の本人は黙ったままだ。
「メンヘラ野郎の真似か。腐ってるな。」
振り駒の結果先手は河津に決まった。
飛車先の歩を突く。いつも通り始めよう。
!?
後手の最初はいきなりの三間飛車、飛車振りである。
「そうか、対抗系か。」
今日の検討室は騒がしい。前回、突然消えた中継に対して真相を追い求める者が集合し、タイトル戦以上の賑わいを見せている。
「一体何があったのか、これでわかるかもしれない。」
太地も画面を注視する。今日の検討室は将棋の検討ではなく、小野寺渚の検討と化している。
「こんなに集まってお祭りか?」
村山がやってきた。彼はどちらが自分の挑戦者になるのかを確認しに来ただけである。
「お前はどうせどっちが勝っても良いように研究しに来たんだろ。生憎今日は皆そんな気分じゃないようだぞ。」
「味谷…将棋に興味ない奴連れてどっかへ行け。ここは検討室、将棋の内容について検討する場だ。」
「そうしたいのは山々だが、それはできない。」
そう言うと村山に近づいて小声で話す。
「実はな、小野寺の監視を頼まれている。警視庁から極秘にだ。だから俺は見張る為にもここから出ることはできない。犯罪を犯さないようにする為にも。」
「じゃあなんだ、新庄戦の時もあの中継中断も監視しているから目撃していると。何故止めなかった?」
「…犯罪をしていないか心配だったが、それは無かった。番外戦術として片付けられる範囲なら止めることはない。だからこそ俺が恐る番外戦術だのどうのこうの言ったというわけだ。向こうが法に触れれば俺は動く。」
「わかった。どうしても出て行かないようだな。俺の邪魔をしないようにしろよ。」
納得してそう言葉を吐き捨てた。
今の検討室内は、村山、味谷、太地の他に、城ヶ崎、十六夜、吉池、中野、平泉薫という構図。
「…なんだよこれ、最初の初手三間飛車は稀に見るが、この後も普通の手が一つもない。おかし過ぎる。」
「…お前もそう思うだろ。明らかに小野寺は壊れている。」
そう思っていたのは村山、味谷だけではない。目の前に当人を見ている男も同じだ。
(全く巫山戯てやがる。俺をコケにするつもりか?)
当然前例なんてあるわけがないので、研究は役に立たない。まるで定跡を知らない子供の指し手である。
(それなのに理に適ってやがる。恐ろしい…)
「検討室内で呑気に湯葉を食べて…全く若者は楽で良いな。」
若手陣が中野の持ってきたお土産を食べ出した。
「味谷さん、湯波いります?」
どうやら日光の土産で湯葉ではなく湯波だったようだ。
「…一枚だけ貰おう。」
昼食休憩のタイミングで高谷も入室。様子がおかしいことに気がついたようだ。
「あんな指し手だったか?違う。やっぱり誰かに操られている!」
「…操られている?」
「おい、高谷、こっちへ来い。」
「操られていると何故思った?」
「羽川が八乙女を操っていた。それと同じで誰かが人を操ることは想像できる。ならば、今指している小野寺は誰かの手のひらで踊らされている…いや、マインドコントロールされていると見て間違いない。」
「…やっぱり操りか。東浜もそういうことをする人ではないと考えていたが、同じでアイツも誰かに…」
「とりあえず、俺が引っ叩いて正気に…」
「漫画じゃないんだ。そんなので簡単に正気に戻るわけないだろう!!」
目が赤くなるわけでもない。本人は操られていると自覚していない。今はただ見守ることしかできない。
「そんなのあんまりだ!俺は俺のやり方でやらせて貰う!!」
この男が必死であることは誰が見ても明らかである。だからよろしいと許可するのは間違いだ。
「落ち着け!」
逆に引っ叩かれる羽目になった。
「お前がアイツのことを大事に思っているのはわかる。俺も同じだからだ。だからこそ、今は我慢なんだ。アイツが線路から外れないように、見張ってなきゃいけないんだ!」
(聴こえてるぞ味谷…検討の邪魔をしないでくれ)
怒鳴り声とまではいかないが大きな声は普通に検討室まで届いている。流石に対局室までは聴こえてはないだろうが、少し心配になる声だ。
「おい、この中で対局の検討に来た奴は誰だ?」
誰も手を挙げない。酷い有様だ。
「太地、お前レベルでもか?」
普段なら対局の検討が大事だろうが、今日は神童の心配をしていた。この呼び掛けに手を挙げられないのも仕方ない。
失望したというか、呆れたような目で若手軍団を見た後、耳栓をした上で一人検討に更けていった。周りが見えない暗闇の世界へ足を踏み入れたということだ。
(この手には一体何の意味があるんだ?)
先程からそのような手が沢山である。
「おい!画面が消えたぞ!また中継中断か?」
「音声も入らない!!」
突如検討室が騒がしくなる。村山以外は真っ暗な画面を指差しながら中継器の故障や向こう側で新庄戦のようなことが起こっていないかの確認を取る。
「対局室に入れないんですよ…」
外に記録係の養成機関生がいた。直前小野寺から水を持ってくるように要求、自分しか行けないということで買いに行った所、対局室に鍵が掛けられた為入れなくなったという。
通路に太地、味谷、高谷、十六夜、吉池が集結する。
「ドアに耳を傾けて聴いてみよう。」
太地が提案して、中の音に注意を向ける。
「自分が北村と同じっていうのは納得がいかない。僕は君を殺したいんだ。社会的に。」
「やってみろ。お前がメンヘラ野郎の真似事をする理由は知らねえが、操られていたとしても俺は手を抜くつもりは全くない。神童だろうが容赦なく叩き潰す。それをやれば孤独が増す?上等だ。俺は生まれつき孤独の体質らしいからな。」
(河津はいつも通りだが、やっぱり小野寺君はおかしい。そんなこと言わないのに。)
皆の心の中にこの言葉が浮かんでくる。此処にいる殆どが神童の心配だけをしている。対局相手など蚊帳の外である。
「絶望ってなんだろうね。君は家族がいない、友達もいない。師匠ももういない。それでも希望が消えたようには見えない。そうか、将棋が君に光を与えているのか。ならばそれが出来ないように腕を切り落とせば、絶望するのかな?」
「やってみろよ、お前が神童と持て囃されている状況から一転、犯罪者として罵倒の嵐となるだけだ。」
「…虚構の強さって、心って、簡単に砕けるものだと思うんだけどね。まぁ流石に僕も君を物理的に殺めることはしないよ。僕が将棋出来なきゃ楽しく無いからね。だから、その意地だけで立っている君を蹴落とすのに、僕の将棋人生を無駄にすることはしない。」
「一体アイツは何をする気なんだ?」
「…もしかしたら、あの時組織側が仕掛けたような番外戦術をするつもりじゃないのか…?一度アイツはそれで敗れている。」
十六夜と高谷が小声で何が起きるかを予想し合う。
「…ならばアイツの師匠ネタで攻める気だろう。」
奥から村山の声がした。彼も盤面の確認をしようとした所、映像が消えているのに気がつき、対局室へ様子を伺いに来ていた。
「過去に一度アイツは師匠関係でスランプになっている。今回はどんなネタで追い詰めるんだろうな。」
「…外が騒がしい。邪魔になるから追い出そうか。」
足音が聞こえてきた。
「まずい、戻るぞ。」
「…自分は?」
「お前は記録係だ、そこに残れ。」
味谷の指示で他は検討室へ撤収した。
「…逃げ足は早いんだね。味谷さんはさておき。」
「あ、あの。戻っても…」
その言葉が言い終わる前に再度鍵が掛けられてしまった。
「さて、教えてあげるよ。君の師匠の話。」
「どうせ俺を憎んでいたとか言えばスランプになるとか舐めた考えしているんだろ?」
「…あの人が入水した時、その場にいたとしたら…?」
あれから1時間ほど経ったか、突如中継が再開された。笑顔の小野寺と絶望した顔を見せる河津。それだけで何が起きたか容易に想像ができた。
「…小野寺渚、今のアイツは俺たちが知っている男では無い。間違いなく魔物だ。」
村山はその狂気に対して、立ち向かうことを決意した。
…おい、お前。
…河津、貴様が人に話しかけるとは、天変地異でも起きるのか?
…巫山戯るのも大概にしろ…いいか、アイツは…小野寺渚は…悪魔だ…笑顔で…心を殺してくる…
…俺はタイトル戦でアイツと戦う。だから心を守り抜けと。
…不甲斐ないが…俺は…今は将棋の為に…健全な将棋を守る為に…敵であるお前に縋るしか無いようだ…
…あぁ、俺たちは敵だ。ただ共通の敵のために一時休戦だ。お前、少しだけ孤独から脱しようとしているように見えるな。
…そうか…無知の知ではないが…孤独と知らない者より知っている者の方が孤独でないと言う…少しづつ進化はしているようだ…
菜緒…?
…何、渚君…
次も僕が勝つよね…?
…う、うん…
一体彼は、神童…いや、悪魔に何を言われたのだろうか。




