怒り
王棋戦…挑むのは…
連盟対局場には多くの記者が詰め掛ける。組織解散に伴い向こうの取材をしていた者たちも全員連盟に集まるようになった。
今日は王棋戦挑戦者決定戦。村山慈聖虎王と味谷一二三九段の一戦である。
「虎王取ってからの彼は一段と活躍の場を広げましたね。昔はよくいるトップに近い棋士ってイメージでしたけど。」
「まぁそれだけあの男を変える何かがあったんだろう。」
記者たちはかつて序盤の鬼として言われ、後に終盤の鬼へと変わり、最近では不死鳥と言われるようになった男の話をしている。
外の喧騒とは裏腹に、中の対局室は静寂に包まれている。今日はこの一局しか行われない。中にいる者は、記録係と職員。それに本対局を見に来た河津ぐらいである。
「お前、見に来たんだな。」
「勝った方と俺は対局する。お前が勝てば研究対象、負ければいない者だ。」
この対局を検討材料にする。挑戦者決定戦で相手も強敵。策を温存してもその前に負ければ意味がない。
振り駒の結果、先手は味谷。先手7六歩。後手8四歩。ここに孤独に挑む二人の男の物語が始まる。
孤独な検討室内、静寂に包まれた中一人盤上を見つめる。どちらかは自分とタイトルを懸けて戦う敵、真剣な眼差しは既に檜舞台を見ていた。
職員たちが陰口を叩こうと気にもせず、一つ一つの手を慎重に検品する。
組織から生まれ変わったと言っても良い組合では、既に進行中であったタイトル戦はそのまま続けられることになったと聞く。万が一連盟が解散していた場合、この対局も新たな存在で受け継がれたのだろうか。
「もしも俺が引退すると言えば、お前はどうする?」
番外戦術か、村山は直感的にそう捉えた。
「そうだな、なんも思わない。が一番だな。」
ここで嬉しいと返せば、永遠に引退しないだのなんだの言われるし、悲しいといえば自分が下になる。無関心こそ一番である。
「そうか、お前のことだから渚を純粋に応援できてお前は嬉しいだろとか言うと思ったんだがな。」
「どうせ引退しなくてもアイツのことを応援している。変らねぇだろ。」
番外戦術というのはこういうものだ。毒を入れるなんて殺人だ。
病み上がりというのは想像以上に体に負担が来る。昼食休憩の時にゼーゼーと息が上がる。体力が落ちていると実感した。
「またランニング…そして女に告られ振ったら毒入りのお茶か…。家で鍛えよう。」
彼の前の机には、焼肉定食大盛りとカレーライスがあった。いつもより多く注文し食べ切った。
体力が落ちているというのは河津の目から見ても明らかだった。
「息が上がっている。やはり毒茶は、影響を残すか…」
但し棋譜は完璧だ。身を削って普段通りの実力、コンデションでやっている。
「渚を俺は虐めた。次はお前だ。」
昼食休憩明けすぐに村山は味谷へ口撃を仕掛けた。これも番外戦術ではある。そして相手の性格から次に出る言葉は
「渚を虐めたというのは冗談でも言うべきではないぞ若造が」
である。明らかに苛ついているのが目に見えてわかる。
(俺は河津戦でのお前の動きを見ている。お前は…)
42手目、8五桂。ノータイムで6六銀と返す。
(そう、そうだ。お前は怒っている時、ミスを犯す!)
味谷の番外戦術。それはミスをしないためでもあった。だからこそ苛立っている時、そこにミスが生まれる。自分が上に立っていないと、そこに意識が持っていかれ疎かになる。河津戦では最初から苛ついていた。そこを突いた。
「あの男も同じ所に気がついている。」
検討室内のぼっち棋士も同じことを考えていた。
味谷の番外戦術は更に加速する。それに動揺すれば自分が上と考えミスは無くなる。一番は無関心。これが攻略の手である。
「もっとゆとりを持て。ゆとりを。」
怒らせていこう。とことん。流石に八乙女のように毒を入れることはない。そこは解っている。
(全く…俺は馬鹿だ。あり得ないミスしたな…)
トイレに立った味谷は、向こうのペースであると実感していた。この場合、冷静さを取り戻すため暫くトイレにいるのも手ではあるが、戻った瞬間に向こうは更なる手を繰り出すだろう。
(ここは…これで行くか。)
席に着くとすぐに煽りが始まる。しかし先程までの怒りは消えていた。自分には妻という存在があるが向こうにはない。このアドバンテージを精神安定剤とした。
(流石に学習したか…)
相手側も効かなくなったことをすぐ理解した。番外戦術はここまでだ。
「ここからは正々堂々か。」
ギアチェンジか、スイッチの切り替えか。何か変わった音が、誰からも判るように聞こえた。
51手目、2五桂打。既に苦しいながらも間違いなく攻めた一手を魅せている。ただその苦しいの部分が非常に大きい。それは味谷も自覚している。
「だからこそ最善策を検討する。ここからでも、行ける。」
それが根拠のない自信なのか否か、分からない。
「判ってるだろう?一度不利にすればそれを逆転させるために身を削らねばならぬ事を。それが実るかは時の運。と言いたいが、俺が相手の場合、可能性はゼロだ。」
その言葉の根拠も不明ではある。ただ彼が優勢なのはソフトも示している。
70手目、4二玉。無慈悲こそ、強くなる最短経路だ。戦場で相手に慈悲など必要ない。それが隙になり足元を掬われるからだ。
向こうの足掻きを崖の上から見下ろすように、手数を重ねていった。
「お終いだ。味谷一二三。俺は、次のステージに進ませて貰う。」
98手目、3六桂打。
小春になんと言おうか、小野寺になんと詫びを入れようか。引退まで心の中でチラついた。少しの間を入れて、細々と投了を告げた。
今期の王棋戦は、村山慈聖が挑戦者となった。
「やはりコイツか…」
タイトル戦の構想を考えながら夜食を買いにコンビニへ寄る。中では3人組の男女が談笑していた。
「五月蝿い奴らだ…」
そう呟いてはいるが自分自身では思いながら弁当を取った。その後レジへ向かうと3人のうち2人がどさくさに紛れて万引きをしている様子が目に入る。1人だけはその気がないのかそんな考えに至らないのか何が起きたのかわからない顔だ。
何故か不憫に感じた。そんな気持ちは生まれて初めてだ。
「おい!待てやゴラァ!」
弁当をレジ台へ置いた後、男女へ向かって叱りつける。
「窃盗なんかして何が楽しいんだ?犯罪とお前ら教えてもらえて無いのか?施設育ちの俺でも知っていることだが?」
何故だろう。無関心こそ正義だと考えていたのに、今犯罪者に対して許せない気持ちになっている。まるで人身事故で飛び込んだ女への怒りの声のような、そんな思いが自分の中にある。正義感というのは形成されるものなのだと、今実感した。
「何してるんだろ」
自己嫌悪だ。時間の無駄を進んで起こした自分が嫌で仕方ない。
ータイトル戦の前に棋士編入の五番勝負だ。高谷の戦いが先に始まるー
高谷類VS五人の審判 棋士編入五番勝負…
そして、河津VS村山… 王棋戦は血の流れる戦いとなるのか…




