3話
名物料理を堪能した後、宿へ帰った。その間も、寝るまでも、いつもの母ライカだった。しかし、どこか違和感があった。いつも一緒だったからこそ分かる。母は努めてそうしていたのかもしれない。
ルドウィクと言う人との間に何があったのだろう? 過去のことをあまり話さない母に、また知らない領域が増えてしまったみたいだ。こんな時、中身思春期だと困るんだよな。中身も実年齢と同じ五歳児だったら、遠慮なく聞けていたのに。でも、この年頃は母の過去なんて興味ないだろうし、聞いたとしてもすぐ忘れるんだろうな。
そんなことをモヤモヤとグルグルと一晩中考えていた。当然眠りも浅くて、気付くと窓の外からチュンチュンと鳥のさえずる声が聞こえてた。
俺は、母とアディの寝息を確かめると、静かに宿を出た。朝の散歩だ。
時刻は日の出前の空が白ぐ頃。すれ違う人は誰もいなかった。こんな時間に子供が一人きりで歩いてたら、確実に不審がられるよな。
この街は平地と丘に造られていて起伏がある。東の海から西の丘へと迫り上がるような構造だ。知らない街並みだけど、とりあえず坂を登って帰りは坂を下れば道に迷わないだろう。甘い目論見かもしれないけど、これも俺にとっては冒険だ。
しばらく歩くと、東の空がピンクとオレンジを混ぜた色へと光り出した。曙色ってやつだ。もうすぐ日の出だ。どこか開けた場所はないかと、俺は小走りになった。すると丁度良さげな広場へ出た。港も東の海も見下ろせる眺めの良い場所だった。
太陽が海と空の間から姿を見せる。その光が水平線を横へ這うように広がり、まだ暗い海を貫くように伸びる。それはさながら、黄金に光輝く巨大な十字の剣だった。
「……きれい」
そんな声が俺の口から漏れていた。こんな光景、辺境の村しか知らない今世はもちろん、病院暮らしだった前世でも見たことがない。眩しかったけど、目を離したくなかった。グラデーションを変えていくそれは、魂を震わす為に作られた巨大なスクリーンだった。
その時だ。馬の蹄と嘶き。それが、すぐ側から湧き起こった。思わず眼を向けると、朝焼けの一部がそこへ降って来たかのようにあった。深紅の馬だった。立髪は毛皮よりも更に赤くて炎のようだ。何よりも異様だったのは、頭頂から生え出した二本の大きな角。これ知ってる。この世界の本で読んだ。有名な魔物、バイコーンって名前だったはず。そんな魔物に馬具が取り付けられ、手綱が伸びていた。
「美しいね……」
低いのに澄んだ声だった。異形の馬上から響いた。手綱を握っていたのは、女……いや、男だ。性別を間違えたのは、薄い空色の髪が肩まで伸びていたせいもあるけど、何よりその美しい顔立ちだ。そこら辺の彫像を並べるのもおこがましい。自分の見知っている人間とかけ離れていて畏怖すら感じる。彼の纏うのは濃い藍色の鎧だ。所々に細工が施され荘厳でありながら威圧する禍々しさも感じる。その背に見える長い柄、その延長線斜めに伸びる幅広の鞘。大剣を背負っている。細面なのにこんなの振るうのか。
光が、昇って来る朝日が、この人の為にあるかのようだった。前世で観た歴史的な絵画に触れた時の感覚を思い出す。
(ほう……この男)
闇神の声が俺の頭の中へ響いた。こいつもこの人から威光のようなものを感じたのか。
「ん!」
突如その男が唸ったかと思うと、大剣の柄を握るのが見えた。次の瞬間、白刃の切先が俺の喉元にあった。遅れてその剣圧が起こした突風が俺の体を打った。
嘘だろ……全く見えなかった。この人、あのバイコーンの馬上から飛び降りて一瞬で間合いを詰め、大剣を振るったんだ。この剣の刃渡りだって大人の身長分はある。これをあの速度で……。スピードだけじゃない。腕力も桁外れている。
真っ白な刃の先を見上げる。俺の眉間を刺し貫くような眼光が降って来た。身動きが取れない。指先でも動かしたら、殺される。
「……魂の気配が一瞬……失礼、私の気のせいだったようだ。そんなはずは、ないか」
男は自分に言い聞かせるように、大剣を背の鞘へ戻した。
「あ、あの……」
俺はようやく声を絞り出すことが出来た。
「驚かせてしまったね。私も、この丘から見る朝日が好きなんだ。一緒に見てもいいかい?」
男は腰を屈めて目線を俺の顔へ合わせ、笑顔を浮かべた。綺麗だ……。幼児の体で中身思春期の俺でも見惚れてしまう。魔法か魔技でも使っているんじゃないかって錯覚する。芸術作品みたいな微笑みだ。俺はただ頷くことしか出来なかった。
「ありがとう。私の名はルドウィク。良かったら、君の名も教えてくれるかい?」
骨の芯が震える、低く甘い声だった。
「リデル……」
俺はただ従うように自分の名を口にしていた。
「リデル。ほら、ごらん。もうあんなに漁船が出港して行くよ」
ルドウィクが海を指差す。俺はなんの躊躇いもなくその指先を見ていた。確かに漁船が何隻も海へ浮かんでいる。いや……まて。
「この街の近海で獲れる海の幸は格別だからね。漁師の方々に、海に感謝だ」
ルドウィクは手を組むんで跪き、海へ向けて祈った。昇っていく陽光がそれを優しく包んで応えていた。じゃ、なくて……ルドウィク?
「あの、えっと、ルドウィクさん?」
「なんだい?」
男はスッと立ち上がった。
「あの、間違えじゃなかったらなんですけど、あのルドウィク・ダナ・アーガトラムさんですか?」
「へぇ、その名を知っていたんだね。いかにも、私がそのルドウィク・ダナ・アーガトラムさ」
男は胸に手を置き答えた。
せ、世界最強殿だ! だとしたら、さっきの神速で大剣を抜いた動きも納得いく。でも、どう言うことだ? 昨日のギュンターの話だと、明日到着するはずだけど。
「こ、この街へは、何しに?」
子供の無邪気さを装って探ってみよう。
「魔族討伐の依頼を受けてね。本当は船に乗って来る予定だったんだけど、それだと遅いんだ。犠牲者が増えてしまう。だから、彼を駆って一晩で来たんだ」
ルドウィクはバイコーンの元へ歩くと、その額を優しく撫でた。異形の馬はそれに応えて短く嘶いた。
一晩で、一体どれくらいの距離を走ったんだろう? 少なくとも船よりもずっと速い。一日も行程を縮めてしまうほどに。
「その馬って、バイコーン、魔物ですよね……」
「ああ、そうさ。でも、怖がることはない。彼の名はシャムロック。私の指示なしで、人を襲うことはないよ」
「そうなんだ……よく見るとカッコいいですよね」
いや、カッコいい部類ではない。飼い慣らされているとは言え、魔物特有の殺意を感じる。その漆黒の眼は俺の命をしっかり狙ってる。下手な動きをしたら、途端に食い殺されるだろう。
「君にもこの美が分かるかい。彼のような深紅の毛並みを持つ個体は唯一無二でね。孤高で他を寄せ付けず、説き伏せるのも苦労したよ……。そうだ。私も一つ、リデルに質問してもいいかい?」
「え、はい」
「武術は誰から教わったんだい?」
「母からですけど……え?」
俺のどこから武術をかじってるって見抜いたんだ? 俺は自分でも分かるくらい眼を見開いて驚いた顔してた。
「何も驚くことはないよ。その立ち姿。骨の使い方を、身体操作を心得ていなければそうはならない。それに、さっき私から剣を突きつけられた時、君は泣くどころか、瞬き一つせず私を洞察していた。自分を食い殺すような殺気に慣らされている証拠さ。日常的に、魔物でも狩っているのかい?」
「そ、そんなことまで」
慌てる俺へ、ルドウィクは悪戯っぽい笑みを向けた。どうだ、みたいな。そんな顔も出来ちゃうのかよ。この完璧イケメン。
「私がリデルの年の頃など、何も出来ないただの弱虫だったさ。君の母上、相当な戦士だろうね。羨ましい。一度刃を合わせてみたい。いや……」
ルドウィクは真っ直ぐ俺を見た。強い視線だ。でも、逸らせない、逸らしたくないような暖かみも含んでいるような眼だった。
「リデル。君が母を超える強い戦士になるんだ。その時は、私と武を競い合おう」
「……はい」
って俺は応えてた。口が勝手に動いたみたいだった。ルドウィクは頷くと、シャムロックの背へ飛び乗った。
「凡庸を否定し、唯一無二であれ」
ルドウィクは、もう一度あの強い視線と共に、その言葉を俺へ送った。強過ぎる言葉だ。俺は受け止めていいのかも分からず、ポカンとしてしまった。
「また私を驚かせてくれ、リデル。必ず再び会おう」
世界最強の男は手綱を握り、軽く振るった。二本角を頂く深紅の馬はそれに応えて嘶きを上げる。駆け出したかと思ったが、翔ぶ、と言った表現が正しいのかもしれない。丘から飛び降り、街の建造物の屋根から屋根へと飛び移っていく様は、俺が知っている馬とはかけ離れた挙動だった。
俺の胸が高鳴っていた。ドクドクと。全身を、魂を揺さぶるほどに。
「また会おうって言われちゃった……」
世界最強、ルドウィク・ダナ・アーガトラム。イケメン過ぎる。
(面白い)
ルドウィクとその愛馬のシャムロックが小さく見えなくなると、俺の頭の中へ闇神の声が響いた。
「あんな人もいるんだね……」
(あれが、今の人間の頂点か。一瞬、俺を感じ取ったな)
「そうか! だから、俺へ大剣を振るったんだ。ってことは、魂を……」
(いるのだ。魂を感じ取れる人間がな。ルドウィクと言ったな。あれは、ただ強いだけの男ではない。世が世なら、勇者となる器だ)
「勇者……」
そう言えば、この世界の昔話でも出て来たな。確か、光の神に選ばれし者。その加護を授けられし者。魔王を討ち滅ぼせし者。だったか。ファンタジーお決まりの設定だと思っていたけど、この世界では勇者も魔王も千年現れていないらしい。何故だろう?
(これは、尚更……武蔵よ、励め。あの男と並ぶのだ)
俺の頭の中に、闇神の笑い声が響いた。グハハって。で、お決まりのように、プツリとそれは消えた。
改めて思うけど、闇神って、何を企んでいるんだろう? 今のところ、悪さはしてないように思う。俺の魔力を抑え付けてくれてるし、ひたすら励めって成長を促してくれてるし。ただの珍しもの好きで言葉が荒いだけの神様ってことはないかな? でも、俺みたいな転生者の魂にわざわざ合一させて封じ込まれてるわけだし、確実に何かやらかしてる奴だ。村へ帰ったら、俺も本を読もう。考察するにも、この世界について知らないことが多過ぎる。まずは、知ることからだよな。
俺は、そんなこと考えつつも、どこかフワフワしていた。間違えなく、ルドウィクと出会った高揚感だった。勇者の器か。きっと人の心を惹き付けるのもその条件なんだろう。