エピソード1
夜闇が焼けていた。それは巨大な都市が燃やしたからだった。
三つの区画が三角に繋がり三千年不落と呼ばれた堅牢なる都。ヴァルノス帝国、帝都トリニダド。その街が今燃え盛る炎に包まれていた。噴き上がる灰に混ざって翼を為した影が何百何千と舞い踊っている。
「かの聖魔大戦でも陥落を免れた三千年都市トリニダドがこうもあっさり。魔王もどきであってもその力は本物か。おもしれぇ」
男は巨大都市の城壁を見上げていた。かつて巨人が積み上げたとも伝承される天を突く連なりである。分厚い石積みをしても、その向こう側の炎の猛りを感じられるほど空気が熱い。男の汗で湿った顔を焼ける夜がぬらぬらと照らしていた。その赤の短髪は逆立ち、一重の吊り上がった眼は鞘を拒む刃のように内に宿る狂気を隠そうとはしていない。鍛え上げた肉体には、皮のベストしか身に付けていなかった。
「同志ハマン・シフ。破滅は娯楽ではないわ」
凛とした声だ。男の名を呼んだ者が歩いて来た。黒髪をなびかせた少女である。陶磁器で誂えたかのように整った顔立ちで、焼ける夜空を凍り付かせるほどに冷たく渇いている。白を基調としたローブには泥も煤の欠片も見られない。
「待ちくたびれたぜ、ミム。お散歩は終わったか?」
「ええ。大いなる滅びに相応く美しい街。忘れられない有意義な時間だったわ。ただ、下卑たものどもの対処には手を焼いたけど」
ミムは自らの長い黒髪にスルリと手櫛を通した。
「下卑たねぇ。言ってやるな。魔族どもにとっちゃ、破滅は娯楽なんだからよ。その為に生きてる。かく言う、俺もな」
「結社の一員として誇りを持って欲しいわ、同志。私達は、大いなる目的の為にこの力を振るう。破滅は手段であって、目的ではないわ」
「いいだろ。どうせこの俺も魔族も、大いなるもののコマに過ぎないんだからよ。コマはコマらしく下卑たことやらせろって。それより、見えたんだろ、この街の命の柱。さっさとやろうぜ。ウズウズしてんだ」
「そうね。これ以上この街が魔族に弄ばれるのを見るのも忍びないわ」
ミムは両腕を広げる。その狭間の空間が途端に歪み始めた。
「繋がれ」
ミムの言霊に呼応して光が空を裂いた。その光の裂け目から長く黒い影が伸びる。影はブスブスと音を立てながら形を為していく。大剣。それの形を人間の作り出した物に分類するのならそう呼ぶしかない。だが、ヒト一人が持つにはその異形はあまりに大き過ぎた。大剣の刃渡りだけで人を三つ縦に並べ、長さを比さなければならないだろう。刀身には八の字が連なる装飾が施され、八の間へは蛇の眼のように鈍く輝きが宿っていた。
「ははっ。さすがにデケェな」
ハマンが異形の大剣に向けて手を伸ばす。長大な柄は彼の掌に吸い寄せられた。
「ウロボロスの牙。それの刃は対象の物質的な命の象徴。三千年都市だけあるわ。勇壮且つ壮麗。さあ、同志ハマン・シフ。トリニダドへ終焉と循環を」
「そんな大層なお題目はどうだっていいんだよ。俺はこいつの必滅の力を味わう。それだけだ」
ハマンはウロボロスの牙を脇へ構え、目の前にそびえるトリニダドの城壁を睨み付けた。息を深く吸い、奥歯を噛み締め、大地を踏み砕く。
振った。常人なら持ち上げることすら叶わぬその異形を、ハマンは石火の速さで横一文字へ振った。その斬撃の軌跡が波紋となって広がり、三千年都市トリニダドを駆け抜けていく。
「終焉」
ハマンは都市へ向けて低く告げる。それに応えるようにトリニダドが上下二つに割れたように見えた。次の瞬間、巨大都市は轟音と共に瓦解した。天地を逆さまにしたかのように、街を形取っていたものが空へ舞う。都市へ住まう人々とそれを屠る魔物を呑み込み、覆っていた火炎を吹き飛ばし、夜闇に巨大な石塊の竜巻がそこへ立ち昇っていた。
「ははははははっ! 最高だ! 最高だぜ、ウロボロスの牙の力はよ! こいつなら、あのルドウィクだってぶっ殺せるぜ!」
「滅多なことを言うものではないわ、同志ハマン・シフ。かの光を成す者も我らの同志。向けるべきは敵意ではなく友愛よ」
「友愛ねぇ。ミム、お前あいつが人類ごときにそんな情向けられると思うか?」
「何が言いたいの、ハマン?」
「あらゆる可能性を考えておけってことさ。お前の必滅の力を向ける相手のな」
ハマンの手にしていたウロボロスの牙は粉々に砕け散り、風に流されていった。
「しかし、儚いもんだぜ。一度振っただけでこの刃は砕けちまう」
「……大いなるものがそれを望むなら、その時が来るかもしれないわ」
「ははっ。お前もそう思うだろ。まあ、気楽にやろうぜ、同志ミム。俺達は所詮コマに過ぎないんだからよ。役目っての果たそうぜ。処刑人ってコマのな」
「そうね。ヴァルノスは世界最強の軍事国家。帝都をトリニダドを墜とされても軍を再編し、反転攻勢を狙って来るはずよ。そうなる前に……」
「次の街をぶっ壊すか。或いは、皇族でも将軍でもぶっ殺すか」
「大いなるものがそれを望むなら」
「いいね。お望みのままにってか」
ハマンとミムは瓦礫と化した帝都トリニダドを背に歩き出した。両者の眼には夜闇にも関わらず鈍い光が宿っていた。