渦巻く
脳内でも胸中でも渦巻く。
お前が言うな。お前だけは言ってくれるな。他の誰がなんと言おうと、私は、私が思っているのに、お前だけはそれを言うなと。
胸焼け吐き気どころではない。溢れ出した思いが体の外でも渦巻いて、この教室を、学校をも呑みこむ台風になりそうだった。
気付いた時には窓ガラスを割っていた。無意識の非行に驚くだけで、痛みさえ忘れていたけれど、手からは血が出ていた。
「白亜さん、大丈夫!?」
「保健室いこっ!!」
何が起きたか気付いてか知らずか、近くのクラスメイトに引っ張られる。血が出ている時点で、故意でも事故でも保健室に行くことにはなるのだが。
「事故ってことにしておこうね」
「足が滑ったでいいよね」
もちろんのように二人とも気付いていた。それでも優しくしてくれることに、自分の今の立場の良さにくすぐったさを感じる。
「ありがとう……」
言葉とは裏腹に渦巻きは消えない。
『アイドルの可憐が見たい。アイドルの可憐を待っている人は大勢いる』
自分にはいないとでも思っていたのか。アイドルの愛堂光を待っている人間がいないとでも思っているのか。
光が幸せなら良いとそう思っていた。推しが幸せであるならば、それ以上の幸せはない。アイドルという道が違ったのであるならば、それを応援していた自分を恥じるし、何よりも素敵なのは光の笑顔だと自分の中で結論付けた。
今の生活が、今の光がアイドルの時ほど輝いていないとは思う。白亜にとってどれだけ特別でも、十把一絡げの女子高生の中に埋没していく。それがどうしようもなく耐えがたいが、幸せなら良いと己を殺して我慢した。
けれど、けれど、諦めた風には見えないのだ。ふとした瞬間に出る寂し気な表情が、哀愁の漂う過去を思い出す顔が、まだ光の中に確かな熱が燻っていると思わせる。
我慢ができない。
そもそも辞める可能性を考えてすらいなかった。
芸能界オールスター祭という生放送の番組で、明らかに体調不良の愛堂光がライブをやったことがある。既に泉可憐の前座という扱いで、チャンスの場でありながら他の誰もやりたがらない仕事ですらあった。
愛堂光が体調不良だったかどうかはその時は不明で、しかしあまりにもその時の必死な姿が話題になり、後でバラエティなどで実は微熱があって~w、なんて笑い話になっている。
だがあれは微熱などではない。そう白亜は思い込んでいる。平常の愛堂光があんなライブをするわけがないのだ。
キレの良い動き、よく伸びる歌声、そんなありきたりなものは平時でもできる。
汗にまみれた、鬼気迫る表情。肩で息をしながらこちらの心臓を射抜くような必死の顔。
笑顔を忘れたトップパフォーマーの本気。
全くリハーサルとは違うだろう、痺れて動けないような会場の空気、司会がなんとか絞り出した言葉が『凄い……愛堂光さん、ありがとうございました』と消え入りそうな声。普段は光ちゃんと呼ばれているのに、感嘆の声が出てもなお数多のアイドルがしんと静まり返った放送事故のような状態で拍手すら遅れてやってきた。
あの伝説の夜を、あれだけは泉可憐に迫るものがあるとアイドルオタクは皆言う。
あれは情熱と野望がなければできない。人生をアイドルに懸けた人間ができるハングリー精神がなしたパフォーマンスだった。
アイドルを辞めるなんてありえない。改めてそう思った。
そう言いたい。本人に向かって言いたい。
だが言えるわけがない。