第3章 過去と悲劇 6話
6 2 years ago ~ now
一人っ子で兄弟のいない明楽にとって千冬は妹のような存在だった。お互いの住まいは静岡と神奈川で少し離れているため、頻繁に会うことはなかったが、それでも会うと、二人でよく遊んだ。
明楽は幼い頃から料理をするのが好きだった。千冬に幾度となく手料理をふるまった。とりわけハンバーグは彼女の大好物だった。いつも彼女はおいしそうに明楽の料理を頬張った。それを見て明楽はいつも幸せになった。
「佐々はよく従妹の話をするな」
授業を担当している柊木とはよく話した。彼は超が付くほど人気で多忙の講師だが、明楽との世間話に付き合ってくれている。柊木は明楽の話を嫌な顔一つすることなく聞いてくれた。
「先生の夢って何ですか?」
ある日の授業後に、柊木と夢の話になった。
「夢?」
「はい」
柊木は少し考えたのちに、「一人でも多くの子供たちを救うことだ」と答えた。
「いい夢ですね」
「ありがとう、佐々は?」
「俺、実は夢があるんです」
柊木に夢を伝えたかったから夢の話をした。
「どんな夢だ?」
「千冬に勉強を教えたいんです」
千冬は今、中学受験のために毎日塾に通っている。辞めたいと言っても辞めさせてもらえず、成績もこれといって上がらず、どんどん勉強が嫌になっている。定期的に明楽と電話をしては、いつも愚痴ばかりこぼす。
「勉強って嫌々するもんじゃないじゃないですか。俺は先生からそれを学びました」
明楽の学力は高くも低くもない。中学時代の成績は常に真ん中、高校に入ってからもそれは変わらない。
勉強が好きでも嫌いでもなく、ただ試験や受験があるから、せざるを得ないから勉強をしているだけだった。
ある日、家のポストに天宝ゼミのオープンクラスの案内が入っていた。明楽はただなんとなく、参加した。そこで柊木に出会った。
「俺は昔、どうしようもなく馬鹿だった。だが、一人の先生に救われて人生は変わった。そして俺は講師になった。断言する、俺もあの時の先生と同じように、君たち全員を救う」
そう言って柊木の授業は始まった。
驚いた。その一言で片づけるにはもったいないくらいに柊木の授業に心を打たれた。根拠などなかったが、彼の授業を受ければ、勉強が好きになれるのではないかと明楽は思った。
その日に明楽は入塾の手続きをした。
「俺から学んだことを従妹に伝えたいとい言うわけか」
「はい」
仮に千冬が受験に合格できたとしても、この先も勉強をしなければならない。そうであるならば、楽しい方がいいに決まっている。柊木の授業を受ける中で、そう感じるようになった。一緒に授業を受ける仲間たちもみな楽しそうにしている。そうしていつの日か明楽は勉強の楽しさを千冬に伝えられるような先生になりたいと思うようになった。
「そうか」
「そのためには、俺は東京の大学に行かなきゃならない。毎週毎週千冬に教えるために神奈川に行くことは流石にできないですから」
柊木は少し驚いたようだった。
「従妹のこと大好きなんだな」
「多分、そうっすね」
好きと認めるのはなんだか照れくさくて、明楽は少しそっけなくそう返した。
「甘くないぞ、東京の大学に合格することも、従妹に勉強を教えることも」
「わかっています」
明楽の言葉に、柊木はニタっと笑みを浮かべると、「じゃあ、昨日渡した模試の課題、とりあえず五周しろ」と言った。
柊木は時に厳しい先生だった。
「わかりました。やって見せます」
柊木が天宝ゼミを辞めることになったと聞かされて時は、なにがなんだか理解できず、明楽の頭は真っ白になった。
「すまない」
彼は三百名の生徒がいるその大教室で、一言そう告げ、教室を出た。具体的な理由の説明は何一つなされなかった。驚きと落胆と失望が入り混じった教室で柊木の後を追うものはいなかった。
みな一様にうなだれている。涙を流している者もいた。
明楽は失望や驚きよりも怒りが勝った。柊木を追って教室を出る。
「やはりお前か」
柊木は待っていた、明楽が来るのを見越していたかのように。
「どういうことかちゃんと説明しろよ」
柊木に詰め寄る。
「すまない」
「どうしてだよ、俺たちを救うんじゃなかったのかよ、こんなに途中で投げ出して逃げて、なんでなんだよ……」
「すまない……」
柊木は苦しそうだった。
「俺たちを裏切るのか」
「裏切る、か。そうなのかもしれないな」
裏切るという言葉に彼は妙に納得しているように見えた。
「ふざけるなよ……」
「お前はいい先生になれるよ。期待している」
一言そう言い残し、柊木は去った。明楽はもう追いかける気にもなれなかった。怒りや失望を通り越して、虚しさだけがそこには残った。
「どうして……」
柊木が去った少し後、明楽は天宝ゼミを退塾した。すぐに退塾しなかったのは、もしかしたら悪い夢を見ているだけで、柊木はまたすぐに帰って来るのではないかという一抹の期待があったからだ。無論、その期待はするだけ無駄で、彼が戻ってくることはなかった。柊木の授業を受けたくて入塾したのに彼がいないとなれば続ける意味はなかった。退塾届を書く際、悲しみや怒りや虚しさなど様々な感情が押し寄せ、涙となって表出した。
それから明楽はただがむしゃらに勉強をした。少しでも立ち止まると柊木がどうして消えたのか、あれこれ考えて、勉強が手に着かなくなると思った。
そんなある日、父親の転勤が決まった。父だけが単身赴任という選択肢もあったが、明楽が東京の大学を受験するということで家族全員引っ越すことになった。
これでもう金輪際柊木と会うことはないと思っていた。
まさか千冬の担当講師が柊木だったとは、千冬から聞かされた時は衝撃で表情筋が壊れた。その後、千冬や彼女の父と話をしたはずだが、何を話したのか一切覚えていない。どうして柊木は再び講師になったのか、そのわけを考えるだけで頭がいっぱいになっていた。
帰宅してからも、柊木のことが脳内を占拠した。
一度裏切った人間は、また裏切る。柊木が明楽たちを裏切って消えたように、千冬にも期待させるだけさせて、消えてしまうのではないか。そんな考えが頭をもたげた。だからといって根拠があるわけではない。ただ千冬には柊木の犠牲になってほしくなかった。
そんな中、悲劇は起きた。
千冬は死んだ。
明楽は激しい後悔に襲われた。
千冬の死に自らの責任を感じる一方で、柊木が戻ってくることがなければ、こんな悲劇が起こることもなかったと思うと、ただ悲しくて悔しくて、この感情をどこかにぶつけたくなって、明楽はエバラスを襲撃した。
『遺書
私はもう生きていく意味がわかりません。どれだけ努力して勉強しても全然報われない。柊木先生に出会って、何かが変わるかと思ったけど、その柊木先生も信用できないみたい。
先生は私を裏切った。
学年トップを取れるくらい、賢い子に生まれたかったな。
どうせ私はこのまま落ちこぼれ。馬鹿は馬鹿のまま変わることなんてできない。
誰かを信用して少しでも頑張ろうとした自分に腹が立つ。
先生に出会わなければ、無駄に期待して絶望することもなかったよ。
もう全部どうでもいい。こんな人生、嫌だ。だから死ぬことにした。
こんな私でも大切に思ってくれた人たちへ。ありがとう、ごめんね。
千冬』