第2章 希望と絶望 5話
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教室内で唯一観覧車が見えない部屋がある。面談室だ。その部屋にだけ窓がない。
そこでは面談室の名の通り、生徒面談や保護者面談を行う。親や子供の本音を聞き出す機会となるが、美香は苦手だった。
山崎真由は美香の目の前で気だるげに座っている。彼女は千冬と同じく最近入塾した生徒だ。
「私はね、別に塾に行く必要なんてなかったの。勉強には自信があるからね。自慢じゃないけど、中学の時のテストでは毎回学年トップ。この前のテストではちょっと微妙だったけど、調子悪かったし、次は余裕でトップでしょ」
真由は私立高校に入学したばかりの高一だ。県立トップ校に合格できる力を持ち合わせていたものの、入試当日に体調を崩し、受験できず、滑り止めの私立高校に仕方なく入学することになった。
先月行われた初めての試験でトップ座から陥落した。順位は真ん中より少し下。一位を取ることを何よりも重視してきた彼女の母親は、その結果を許さなかった。そして真由を強制的にエバラスに連れてきた。
「そんな私に塾なんて必要?」
真由自身は塾に通うことに懐疑的だ。
「自分で勉強できるなら、塾は必要ないと思う」
「でしょ、本当にそう思う。そもそも、私はあんな馬鹿校に通うはずじゃなかった。入試の日に風邪を引かなければ、県立のトップ校に合格できていた。私は、できる子なの」
高校では、中学と違って学力が似通っている人たちが集まる。たとえ滑り止めの私立高校だとしても中学ほど学力に大きな差はない。
だからこそ、中学のとき学年トップだったという事実は高校では意味を持たない。真由と同じようにトップを取っていた人も少なからずいるだろう。
「そんな私が塾に通うメリットって何?」
高校に入った途端、勉強ができなくなる人は多い。中学の時にできていた子に、その傾向は顕著で、自分はこんなはずじゃないと、できない自分を認めることができない。過去の栄光に縛られている。
美香も真由の気持ちは痛いほどわかる。美香自身、高校入学時は彼女のような状況だった。
「次の試験でトップを取らせるっていうのはどう?」
「私の話聞いていた、それくらい自分でできる。前は調子が悪かっただけ、何度も言わせないで」
今のままではトップはおろか上位に食い込む事すらできないと言ったところで、真由は聞く耳を持たないだろう。むしろ逆効果、一層気を悪くする未来が見える。
美香は少し考えたのち、「メリットって言われても難しいね」と愛想笑いを浮かべた。
「呆れた。エバラスってこの辺じゃ有名な塾って聞いていたけど、大したことないね。私、やっぱりもう塾来るのやめるわ」
そう言い残し、真由は面談室を後にした。
一人きりになった面談室で美香は大きな溜息をついた。
柊木なら真由の心も一瞬にして掴んでしまうのだろうか。美香には彼のように胸を打つ言葉が浮かばない。千冬にせよ、真由にせよ、生徒から信頼を得ることができていない。入退差がマイナスであり続けるのも当然の結果と言えた。
「どうすればいいんだろ……」
具体的な方策が思い浮かばない。こういう時、彼はいつも話を聞いてくれた。そして美香が話し終えると、アドバイスをくれる。何度も救われた。
そんな彼はもういない。頼りたくても頼れない。
頭を抱えていると、扉が開いて柊木が入ってきた。
「どうかしましたか」
柊木は何度かノックしていたらしい。全く気が付かなかった。
「あ、すいません」
「さっきの子、新しい生徒ですか」
「えぇ、まあ」
「遠藤さん、元気ないですね」
美香は柊木に悩みを吐露する。天宝ゼミのエースなら一筋の光をもたらす言葉を言ってくれるのではないかと期待した。彼の代わりを柊木に求めた。
「結局、千冬ちゃんにも真由ちゃんにもなんて言っていいかわからないんです。だから一緒に頑張ろうとか言って、優しいふりしてごまかしているんです。私、教室長に向いていないのかな」
自虐的に笑みを浮かべる。
「すいません、忘れてください」
「そんなに思い悩むことはないんじゃないですかね」
「え……」
「正直、遠藤さんは教室長に向いていないと思います」
直接的な物言いにも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「でも、向いているか向いていないかじゃなく、やりたいかやりたくないかでしょ」
「どういうことですか」
「前に言いましたけど、俺は昔、天宝ゼミで働いていました。ありがたいことにたくさんの生徒を受け持って、カリスマなんて呼ばれることもありました」
昔彼が自慢げに柊木の話をしていたことを思い出した。
「それでも、元々俺は馬鹿ですからね。向いていないんじゃないかって悩むこともよくありました」
カリスマと呼ばれた男も人知れず苦悩していたのだ。
「でも紗希は、『向いているか向いていないかで決めるんじゃなく、やりたいことを選択しなさい』って言うんです」
「あ、え、紗希さんって?」
「婚約者でした」
「え、あ、そうなんですね……」
彼はてっきり独り身だと思っていた。恋愛など興味のない男だと勘違いをしていた。
「遠藤さん、今、そこじゃないかな」
「すいません」
美香はバツが悪そうに押し黙る。
「紗希のその言葉が俺の胸の中にすとんと落ちて、辞めない選択をしましたね」
「柊木さん……」
「遠藤さんはどう思いますか」
やはり柊木には敵わない。彼は自分の話を終えると、最後は相手に選択を委ねる。説得力のある彼の話を否定する人はいないだろう。
美香は、「やりたい。私はこの仕事が好きだ」と答えた。言わされたわけではなく、本心からそう思っての発言だった。
「だったら、悩む必要ないと思いますけどね」
そう言って美香に微笑みかけた。
「それに、遠藤さんは俺を変えました」
美香が声をかけなければ、今頃どうなっていたかわからないと柊木は語った。突然彼が本心を話したことに驚くと同時に、美香は嬉しくなった。
「俺はお節介な遠藤さんの方が好きだな」
美香の中で何かがはじけ飛んだ。できない自分に打ちのめされて黒く歪んでいた心がその言葉で一気に浄化された。
「ありがとうございます」
「いえ」
「でも、すごい変わりようですね。この間まで死のうとしていた人が」
「だからそれは――」
「わかっています、わかっています。私のおかげですよね」
「あなたって人は……」
美香は自分を取り戻した。もうくだらないことで悩むのはやめよう。
「これから」
美香は少しかしこまって言う。
「私の力になってくれますか」
何も言わず、柊木は美香の目の前に立つ。
「あれ、私変なこと言いました」
そして彼はそっと右手を美香に差し出した。
「俺なんかがどれだけ力になれるかわかりませんが、よろしくお願いします」
「はい」
美香は柊木を見つめながら、手を握り返す。暖かい手だった。
「で、柊木さんはどうしてここに?」
「千冬の面談」
柊木に同席をお願いしたことをすっかり忘れていた。
「すいません……」
柊木の授業を受けてからというもの、千冬は著しく成長した。授業がない日も自習のために来校し、疑問点も積極的に柊木に質問をしていた。
そうして一ヶ月が瞬く間に過ぎ、先日一学期期末試験を終えた。
今日はその試験の結果を持ってくることになっている。
「千冬ちゃん、いい結果だといいですね」
柊木は黙って美香の隣の席に着く。
面談開始五分前に彼女はやってきた。
「千冬ちゃん」
「こんにちは」
彼女はそう言って美香たちの向かいの席に腰を下ろす。
「先生……」
千冬の表情は暗かった。だからこそ、その後に差し出された結果を見ても、大きく動揺することはなかった。
順位は学年最下位だった。
美香は帳票を柊木に渡す。彼は一瞥しただけでそれを美香に返した。彼の表情からは感情は読み取れない。
「次、頑張ろう」
美香は励ましの言葉をかける。
「頑張ったんだけどな……」
一ヶ月で結果が変わるほど、現実は甘くなかった。
「私、やっぱり学年最下位が合ってるのかな」
「そんなことないよ」
「遠藤さん」
徐に柊木が口を開く。
「少しお時間いただいてもいいですか」
美香は、「はい」と応じる。
「千冬」
彼は席を立ち、千冬の隣に移動する。
「俺も、昔似たようなことがあった」
彼は努力について、天野から聞かされた話を語った。
「気持ちはよくわかる。だが、まだまだ努力が足りないな。学校から出されるワーク、何周した?」
「一周です」
「あと五周だな」
「厳しいね、先生」
「俺は先生に七周だと言われた」
「私の方が少ないね」
いつの間にか千冬に笑みが戻っている。
「まぁ、昔の俺の方が今の千冬より馬鹿だ。今度成績見せてやる」
「それ、私も見たいです」
美香も会話に割って入る。美香には見せないと一蹴された。
柊木は真剣な表情に戻って、千冬に問う。
「また逃げだすのか」
「……逃げ出しません」
千冬は力強くそう断言した。
「安心しろ、千冬がやってきたことは何一つ無駄じゃない。これからもっと頑張れば、明るい未来が待っている。俺が保証する」
美香に言えない台詞を柊木は容易く言葉にする。そしてその言葉は上っ面だけの言葉ではなく、心から発言しているように美香には見えた。これがカリスマとまで言われたプロ講師の力なのか。
美香は感心せずにはいられなかった。
その後、笑顔を取り戻した千冬と今後の授業のスケジュールについて確認をしたのち、彼女を帰した。
再び、柊木と二人きりになった。
「千冬ちゃん、変わりましたね」
美香は切り出す。
「全部、柊木先生のおかげです。本当にありがとうございます」
彼は短く、「いえ」とだけ返した。
「次の試験で絶対に結果を出させてあげないと」
「もう彼女は大丈夫ですよ。土台は整った」
柊木はどこか楽しそうだった。
仕事を終え、教室を出たのは夜の十時を少し回った頃だった。柊木が手伝ってくれたため、早く業務を終わらせることができた。
外の景色がいつもと違っていた。観覧車がライトアップされていたのだ。
「そっか、今日からなんだ」
「動いていますね」
今日から運転再開らしい。美香はなんだか嬉しくなった。
「観覧車好きなんですね」
もともと美香が好きなわけではなかった。
「先輩が好きだったんですよ」
彼はよく観覧車に乗りに行こうと言った。
「その人の影響で、エバラスに就職しました」
柊木は、「追っかけですね」と呟く。
「確かに。私、先輩のことが大好きで、正直最初は教育業界とか全然興味なかったです。面接に通ったのが不思議なくらい。先輩が口利きしてくれたのかな」
「社長に近い方だったんですか」
「はい。秘書をしていました。あでも、その時社長は社長じゃなかったから関係ないか」
「過去形なんですね」
その彼はもうこの世にはいない。
「すいません」
「いえ、気にしないでください。昔のことですから」
とは言ったものの、美香が彼を忘れた日一日としてない。
「俺にも、観覧車が好きな友達がいました。観覧車好きな人って意外と多いんですかね。俺は苦手ですけど」
柊木は視線を観覧車に向けたまま言った。彼のさりげない気遣いに感謝した。