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第97話




***



 ライリーは駆け込んだ離宮の庭で、信じられない光景を見た。

 赤い蛇が虚空に消えて、黒い蛇が威厳を持って佇んでいる。


 ああ。あの黒い蛇に、自分は殺されるだろうか。


 それならそれで構わない。それだけのことをしたのだから。

 そう思って見上げるライリーの背後から、誰かが駆け寄ってくる音がした。


「ライリー様!」

「ニナ……」


 ニナの背後にはヘンリエッタと、彼女を支えるようにして走るマリッカとリネットの姿もある。


「妃殿下、危険ですからお戻りを……っ」

「いいえ。この国の王族として、見届けねばならぬことです」


 ヘンリエッタは歩みを止めず、離宮の庭に足を踏み入れた。


「これまで十二年間、ヴェンディグ様とノルゲン様が戦ってきた結末を、私にも見届けさせてください」


 ライリーは顔を歪めた。

 自分は、そんな風に言ってもらえる立場にない。裏切ったのだから。十二年間の信頼を。


「レイチェル……?」

「お姉様……」


 ヘンリエッタの側の二人が呟いたのをきっかけに、庭にぽつりと座り込むレイチェルに気づいた。

 そして、彼女の腕の中でピクリとも動かない、己の主——ヴェンディグの姿を見た。


「あ……」


 ライリーは悟った。もはや、己の命一つで贖えるものではないのだと。






 抱えた体から溢れ落ちた血がレイチェルのドレスに染み込む。けれども、その液体がもう少しも温度を持っていないことがわかって、レイチェルは泣いた。


「……ヴェンディグ様……」


 呪われた生贄公爵。

 そんな噂を信じて、自分の都合で利用しようと飛び込んだ浅はかな娘を、救い、導き、——愛してくれた。

 ヴェンディグは自分に全て与えてくれた。


(私はまだ、何も返していないのに)


「ヴェンディグ様……っ」


 血で汚れるのなんか少しも構わずに、レイチェルはヴェンディグの体を抱きしめ続けた。


「……レイチェル」


 ふと、かけられた優しい声に、レイチェルは顔を上げた。

 少し高い位置に、ナドガの顔があった。


「ナドガ……ヴェンディグ様が……ヴェンディグ様が……」


 ぼろぼろと泣くレイチェルを見て、ナドガがほんの少し笑ったような気がした。


「レイチェル。どんな姿になっても、ヴェンディグを愛せるか?」


 レイチェルは目を瞬いた。ナドガの赤い瞳が、じっとレイチェルを見下ろしている。


「……ええ。ええ! どんな姿でも、私はヴェンディグ様を愛しています!」


 蛇の王に誓う。人の「欲」の声を聞くことのできる存在に、己の心からの「声」をぶつけた。


「ありがとう。レイチェル」


 ナドガはレイチェルの腕の中のヴェンディグの体をくわえると、地面に横たえた。

 そうして、ヴェンディグの体の上に浮かぶ。


「ナドガ……?」

「レイチェル。私達は、影から生まれて影に還る存在だ」


 そう言った途端、ナドガの体から全ての鱗が剥がれ落ちて、キラキラと黒曜石のような光を残してヴェンディグの胸元に吸い込まれていった。


「悲しむことはない。私は十分長く生きた」


 ナドガの体は、キラキラ光る小さな塊となって、ヴェンディグの中に入っていく。ナドガの体が、見る間に小さくなっていく。


「最後に最高の「欲」も食えた」


 黒い体が崩れ去り、最後に残った赤い瞳がキラリと光った。


「さらばだ、レイチェル。ヴェンディグを頼む」


 その言葉を残して、蛇の王だった肉体は、残らず地面に横たわる青年の体に吸い込まれた。


 青年の体が、一瞬、黒い靄に包まれた。そうかと思うと、青年の体にあった傷——削れた顔も千切れる寸前の左腕も——黒い何かに覆われていく。かの青年が身に刻んでいた赤黒い痣よりも、もっと黒く濃い色で、皮膚が作られていく。傷が埋まり、欠けていた部分が補われ、完全な人間の肉体となる。その左半身が、漆黒の色をしていることを除けば。


 レイチェルは声もなくその光景を見つめていた。その場にいる他の誰も、身動きが取れなかった。

 肉体が完全に修復され、しばしの間を置いて、ヴェンディグはうっすらと目を開けた。


「ヴェ……ン……ディグ様……」


 レイチェルの見ている前で、確かに息絶えたはずのヴェンディグが、ぼんやりと虚空を見つめて長い息を吐いた。


「……ナドガが……行ってしまった……」


 ぽつりと、ヴェンディグが呟いた。

 寂しそうに。寄る辺ない子供のように。


 レイチェルはぎゅっと唇を噛み締めると、ヴェンディグの傍らに座り込み、真っ黒になった左手をぎゅっと握り締めた。


「いいえ。いいえ。ナドガはここにいます」


 力強く言い切り、涙で濡れた目でしっかりとヴェンディグを見つめた。


「ここにいます。ずっと、ヴェンディグ様の中に」


 レイチェルは微笑んだ。

 ヴェンディグはレイチェルを見つめると、一筋、涙を流して「うん」と頷いた。




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