第84話
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朝早くに王宮へやってきたニナは、妙に馬車が多く騒がしいのに気づいて眉をひそめた。
蛇に連れ去られたレイチェルはまだ見つかっていないと聞く。今日はおそらくロザリアは城に来られないだろう。彼女は自分と違って家族に愛されているから。ニナはそう思った。
王太子妃の部屋に急ぐと、青い顔をしたヘンリエッタが迎えてくれた。
「ニナ……よく来られたわね。王宮は危険だと止められなかった?」
「ええ。私は大丈夫です」
ニナの家では皆、弟達にしか興味がない。連日、出かけていても何も言われないし、もしかしたらいないことに気づかれていないのかもしれない。
ヘンリエッタの周りにはいつもより侍女の数が少なかった。皆の様子がおかしいから、信頼できる者しか近くに寄せていないのだとヘンリエッタは説明した。
「あの子爵令嬢が、王宮に若い男性貴族を呼び集めているの。殿下と陛下が彼女の言いなりで……」
ヘンリエッタは沈痛な表情で額を押さえて首を横に振った。馬車がたくさんあったのはそのせいかとニナは苦々しい気持ちになった。
「ヴェンディグ様も閉じ込められているし、どうしたらいいのか……」
ヘンリエッタの呟きを聞いて、ニナは胸の前で拳を握った。
明るい日の光が差し込む室内で、黒い痣がない主君の姿は閉じ込められているとは思えぬ威厳を湛えていた。
入ってきたライリーを見て、窓辺に佇んでいたヴェンディグは振り向いて笑みを浮かべた。
「よう、ライリー」
イタズラを企む少年のような顔つきで、ヴェンディグはライリーの前で椅子に腰掛けた。
「お呼びですか」
「ああ。お前に言いたいことがあったんだ」
ゆったりと足を組むヴェンディグを前にして、ライリーはどんな罵倒を浴びようが甘んじて受け入れると決めていた。
だが、ヴェンディグは笑みを浮かべたまま静かに話し始めた。
「レイチェルとナドガは、まだ見つかっていないんだろ?」
「はい。レイチェル様がご心配ですか?」
「ははっ。レイチェルにはナドガが一緒にいるから心配いらない。ナドガには、レイチェルが一緒にいるから心配いらない」
確信しているような口調で言うヴェンディグに、ライリーは眉をしかめた。まだあの蛇の王を信じているのか。ずっと側に仕え続けた自分よりも、蛇の方が信頼できるというのか。
どろどろした感情が胸の中で渦巻いて、ライリーは拳を強く握り締める。だが、次にヴェンディグが言った言葉に虚を突かれた。
「そして、俺にはお前がいる」
当惑して目を丸くしたライリーに、ヴェンディグは語りかけた。
「俺の一番の理解者は、ナドガではなく、レイチェルでもない。お前だと思っているよ。ナドガは蛇の王で、シャリージャーラを捕まえるのが最優先だった。レイチェルは家族の問題で頭がいっぱいで、余裕がなかった。俺のためにここに居てくれたのは、お前だけだよ」
「……私は、家の事情でここに」
「確かにそうだが、もう十二年も経っているんだぞ。実家は爵位を継いだ兄夫婦が盛り返したし、お前が望むなら文官を希望して試験を受けることだって出来ただろう。ちょくちょく王宮の方にも顔を出して働いていて、皆、お前が有能だと知っている。陛下だって、お前一人にずっと重荷を押しつけやしないさ」
ヴェンディグの言う通り、王宮の職員にそれとなく配置換えを希望してはどうかと勧められたこともある。希望すれば通ったかもしれない。だが、ヴェンディグを離宮に残して、自分だけが逃げ出す訳にはいかないとライリーは思っていた。
そう、自分がずっとヴェンディグを支えるのだと――
孤独な彼を支えるのだと、思っていたのに。
「俺がお前に甘えすぎていたんだ。お前がどうしたいのか、ちゃんと聞いておくべきだった。すまない」
「ヴェンディグ様……」
「言いたいことはそれだけだ」
ヴェンディグはふっと息を吐いた。
「今までありがとう。ライリー・ノルゲン」