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第60話



「貴女は——」

「おかしいわよね?」


 ライリーの声を遮って、少女はにこっと笑って近づいてきた。


「あなたは恋人とこんな風に人目を忍んでしか会えないのに、あなたの主君は美しい婚約者と離宮で誰にも邪魔されずに過ごしているのよね?」


 ライリーは咄嗟に身構えた。


「お前は——」


 目の前にいるのは、レイチェルとさほど変わらない歳の令嬢だ。にこにこと笑っていて敵意は感じられない。


 けれど、何か得体の知れないものを感じる。


「お前は……パメラ・クレメアか?」


 半ば確信を持って尋ねると、少女——パメラは笑みを深くした。


「まあ、ライリー・ノルゲン様に知っていただけているだなんて、光栄ですわ。私はたかが子爵令嬢ですのに。同じ子爵家でも、ライリー様は公爵閣下の侍従という栄光の元におられますもの。私などには眩しい御方ですわ」


 心にもない謙遜を口にしながら、パメラは滑るように近づいてくる。蛇が獲物に近付く動きを彷彿とさせた。ライリーは奥歯を噛み締めた。


「私をどうするつもりだ?」

「いやだ! 私のような何の力もない者ががライリー様をどうにかするだなんて。そんなことありえませんわ!」


 パメラは大仰に驚いて見せた。


「私はただ、ライリー様がお可哀想で……」


 パメラがふっと眉を下げて悲しげな顔をした。わざとらしいのに、人を惹きつける雰囲気が醸し出されている。ライリーはじりじりと後ずさった。


 この場から逃げなくては。ナドガはシャリージャーラの能力を大したことがないように言っていたが、それであの体たらくだ。一度にたくさんの人間を操ることは出来ないという言葉も信用できない。おそらく、シャリージャーラの力はナドガの予想よりも遥かに強かったのだ。


「ねぇ、ライリー様。酷いと思いませんの?」

「……何?」

「だって、あの蛇のせいで、あなたは十二年間もあの離宮に縛り付けられているのよ?」


 ライリーはひゅっと息を飲んだ。


「あの蛇さえいなければ、あなたが公爵閣下の侍従に選ばれることもなかった……あなたは自由だったのに」


 パメラの言葉が、水が染みこむように胸の中にじわりと入りこんでくる。ライリーはぐっと口を引き結んだ。


「俺を動揺させようとしても無駄だ、俺は……」

「あなたは、十二年もの間ご自分の人生を犠牲にして、愛すら諦めようとしている」


 パメラは心底から同情するように、胸の前で指先を合わせて上目づかいにライリーを見上げてきた。


「あの蛇さえいなくなれば、あなたが離宮に閉じ込められる必要はなくなるのよ」


 頭の奥がじんと痺れた。

 ライリーは首を振って頭の奥に残った甘い響きを振り払おうとした。だが、その隙を与えずにパメラが畳みかけてくる。


「ねえ、蛇の王が逃げた罪人を捕まえなくちゃ、だなんて、あなたには……いいえ、あなたの主君にも、この国の誰にも関係ないことじゃない」


 あどけない子供が疑問を訴えるように「ねえ?」と迫ってくるパメラに、ライリーは背筋がぞっとした。これ以上聞いてはいけない。本能的にそう感じた。


 ここから逃げなくては。帰らなければ、離宮に。そう思うのに、ライリーの足はその場に縫いとめられたように動かなかった。


「蛇が一匹逃げたぐらいで、どうしてあなたの主君もあなたも、人生を犠牲にされなければならないの? 蛇の世界のことなど、あなた達には何の関係もないのに」


 そうだ。何も関係がない。蛇の世界があることなど、誰も知らないのだから。ライリーだって、離宮に来さえしなければ、知ることはなかったのに。


「蛇の王の不始末を、どうしてあなた達が拭ってやらなくちゃならないの?」


 ナドガがヴェンディグを必要としているからって、どうして協力なんかしてやらなければならないのか。一度もそう考えなかったとは言えない。


「蛇一匹が何人かの「欲」を食うぐらい、大したことじゃないのに」


 蛇一匹。たかが蛇一匹。大したことはない。


「十二年も、そしてこれからもずっと、あなたの人生を犠牲にするほどのことなの?」


 十二年間、そして、これから——あとどれくらい続くのだろう。


「蛇の王に支配された十二年間を思い出して」


 甘い声が、脳に染みこんでくる。


「これからも、蛇の王の奴隷として生きるの?」


 いつの間にか目の前にいたパメラの指が、ライリーの胸をつうっと撫でた。




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