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第40話

***


 今日はヴェンディグとお茶の時間を共に出来なかったので、捜索に出る前に見送りに行くことにした。

 そろそろ出発の時間だ。

 レイチェルはナイトドレスの上にガウンを羽織って部屋を出た。ヴェンディグの部屋を訪れノックすると返事があった。扉を開けると、ちょうどヴェンディグの体からナドガが出てきたところだった。

 レイチェルはいつものように入室して、ヴェンディグとナドガに近寄ろうとした。

 だが、レイチェルが近寄ると、何故かナドガが嫌がるように身を捩らせた。


「すまない、レイチェル。何か匂いのする物を持っていないか」


 苦しそうな声で、ナドガが言う。

 レイチェルは一瞬戸惑った後で、はたと思い出してポケットからサシェを取り出した。


「それ、ラベンダーだな」


 ヴェンディグが顔をしかめた。


「言ってなかったな。蛇はラベンダーの匂いが苦手らしいんだ」

「え?」


 レイチェルは目を丸くした。


「昔、祈祷師にラベンダーの香を焚かれた時は危うく俺の体から逃げ出して正体を晒すところだった」

「そこまでではない。宿主の頭から香油を浴びせられでもしない限りは大丈夫だ」


 ヴェンディグの言葉をナドガが訂正する。

 レイチェルは青ざめた。


「も、申し訳ありませんっ!」


 ナドガとヴェンディグに向かって腰を折って謝罪する。


「不用意に外から物を持ち込むべきではありませんでした!」


 離宮の主人であるヴェンディグに伺いを立てるべきだった。そんな当たり前のことすら思い浮かばなかった自分を恥じて、レイチェルは後悔した。


「ああ、いや。別になんでも好きに持ち込んで構わないさ。たまたまこいつがラベンダーが苦手だっただけだ。お前は何も謝る必要ねぇよ」


 ヴェンディグはそう言ってくれたが、レイチェルは己の失態に深い自己嫌悪に陥った。


「レイチェル。そんなに気にしないでくれ。何も毒という訳ではない。人間が腐臭に顔をしかめるのと同じようなものだ」


 ナドガも慰めるように言う。


「気にするな。俺達は行くからお前は部屋に戻れ」


 ヴェンディグがナドガの背に股がり、黒い蛇が身をくねらせて窓から出ていった。

 レイチェルは情けない気分で立ち尽くし、それから力無い足取りでヴェンディグの部屋を後にした。



***



 頭上を見上げればきらきらしく輝くシャンデリアがある。磨き抜かれた床に輝きが反射してどこもかしこも眩い。ダニエルは目を閉じて溜め息を吐いた。

 伯父の友人という伝手で誘ってもらったが、やはり伯爵家のパーティーだなんて自分の身の丈に合わないと思う。

 ぱっと見たところ招待客は子爵以上の家柄が多そうだ。だいたい必要な挨拶は終わらせたし、普段から王都に住んでいないダニエルには今以上に交友関係を広げる必要もない。男爵家のダニエルには長居する意味もないだろう。パーティーはまだ続くようだが、適当なところで帰らせてもらうことにした。

 自分には王都より領地で過ごす方が性に合っていると思いつつ引き上げようとしたダニエルだったが、出口に向かって歩く途中ですれ違った少女に気づき声をかけた。


「パメラ?」


 まさか、と思いつつ振り返ったのに、少女もダニエルを見て目を丸くした。


「まあ! ダニエル」


 ぱあっと、輝くばかりの笑顔になったパネラは、大人びたドレスに身を包み大きな宝石を身につけていた。子爵家でそんな用意が出来るはずがない。


「パメラ。なんでここに」

「知人が私を憐れんでたすけてくれたの」


 パメラはふっと目を潤ませて、ダニエルの腕にそっと手を置き指を滑らせた。


「あの連中……義母と義姉は私を売ろうとしていたの。お父様もよ。私を売った金で贅沢をするつもりだったのよ」


 儚げに見せていたパメラの表情に、寸の間、隠しきれない憤怒が混じった。緑の目がぎらりと光る。


「それで私、逃げてきたの」


 激しい怒りを引っ込め、パメラは寄る辺ない少女のような微笑みを浮かべた。


「もうあの家には帰らないわ。だから、ダニエルもあんな家には二度と近づいちゃ駄目よ。ね?」

「あ、ああ」


 気圧されそうになって、ダニエルは何か違和感を覚えた。目の前にいるのは良く知る幼馴染のはずなのに、まるで知らない人間の笑顔を見ているような気がする。


「私、もう行かないと。また会いましょうね、ダニエル」

「ああ……」


 パメラは名残惜しいというようにダニエルの腕をするっと撫でて、それからゆったりと踵を返した。

 その瞬間、ダニエルの目に入ったパメラの横顔が、真っ赤な鱗に覆われているように見えて——ぞろり、と、巨大な蛇が少女の白い頰を這っていて——ダニエルは咄嗟に叫んでいた。


「パメラっ!!」


 振り向いたパメラは、きょとんとした表情でダニエルを見た。その白い肌には赤い鱗などどこにもない。

 ダニエルは愕然として立ち尽くした。


「どうしたの? ダニエル」


 小首を傾げて尋ねてくるパメラの姿に、どこにもおかしなところはない。

 それなのに、何故だろう。この時ダニエルには、目の前にいるのが全然知らない女に見えた。


「ダニエル?」

「パメラ……」


 ダニエルは渇いた声で問うた。


「パメラ……何か、困っていないか?」


 得体の知れない焦燥が、ダニエルの背筋を這い登ってくる。このままでは、良くないことが起きそうな気がして、パメラを助けてやらなくてはいけないという想いが込み上げてきた。

 だが、パメラは笑顔で言った。


「心配しないで。私は今、とっても楽しいのよ」


 笑顔を残して、パメラは今度こそダニエルに背を向けた。きらびやかな会場の中心へ向かっていく背中が、ダニエルの知っている少女のものとは思えなくて、ダニエルはその場から動くこと出来なかった。




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