第32話
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「よかったのか?」
「あん?」
少し曇った夜空の中を飛んでいるナドガが、背の上のヴェンディグに尋ねた。
「レイチェルのことだ」
ヴェンディグは顔をしかめた。
「まさか、連れて行くとでも言うんじゃねえだろうな」
夜の捜索に連れて行ってほしいと懇願するレイチェルを持て余しているヴェンディグを見ていた癖に、何を言っているのだと腹を立てる。
「侯爵令嬢が股開いて大蛇の背に乗る訳にいかねぇだろうが」
「普通の令嬢なら嫌がるだろうが、レイチェルなら平気ではないだろうか」
暢気にそう宣うナドガに、ヴェンディグは舌を打った。
なんと言われようと、ヴェンディグはレイチェルをこれ以上関わらせるつもりはない。レイチェルはいずれ離宮を出てどこかに嫁ぐ身だ。これ以上、共に過ごす時間が増えたら、手放せなくなりそうで怖いのだ。
「そんなことより、この辺でやるぞ」
ヴェンディグは手綱を引いてナドガを止まらせた。ナドガはぐるりと旋回し、眼下の家々を見下ろす。
「良いか」
「ああ」
ナドガが大きく口を開けた、声なき声を発した。
その途端、下から四、五十人分の声が響いてきた。
『あの女をものにしてやる』
『あの娘から彼を奪いたいわ』
『あいつ、上手くやりやがって』
『くたばれ、くたばれ、くたばれ』
『どうすりゃ儲かるかなぁ』
「欲」の声が聞こえる。
ヴェンディグは目を閉じて声に集中した。何十もの声の中から不快な音を探す。
「……違う」
「そうか。では帰ろう」
あっさりと声を止ませて、ナドガはぐるりと身をうねらせる。
「もう一回ぐらい平気だ。別の場所で……」
「駄目だ。また寝込んだらどうする」
ナドガはヴェンディグを無視して離宮の方角へ首を向けた。
「そうしたらレイチェルに心配されるだろう」
「……」
離宮に向かって飛ぶナドガの背の上で、ヴェンディグは無言で口を尖らせた。
「ヴェンディグよ。やはり一度レイチェルを連れてこよう」
「はあ? 何言って」
「初めて見た時から感じていた。あの子はいつも自信がなさそうだ」
ナドガの言葉に、ヴェンディグの脳裏に初めて会った時のレイチェルの姿が蘇った。
臙脂色の古臭いデザインのドレスを着て、歩いてやってきたとかで、ゆるやかに波打つはちみつ色の髪が少しぼさぼさになっていた。
けれども、少しの憂いを帯びながらも決意を宿した紫の瞳はきらきらと輝いていて、仕草も美しかった。何より、ヴェンディグの姿を見ても、少しも嫌悪を表さなかった。
いきなり結婚してくれと言われて度肝を抜かれたが、非道な侯爵に嫁がされそうになっているのを助けてやればいいだけだと思った。だけど、レイチェルがヴェンディグの痣の浮いた体を恐れなかったせいで、成り行きで婚約者にまでなってしまった。
そうして、ついには最大の秘密まで白状させられてしまった。
まったく予想のつかない、たくましい少女だ。
ヴェンディグはそう思う。だが、ナドガは言うのだ。
「あの子は不安定だ。寄りかかるところがないのだろう。お前の役に立たなければならないと一途に思い込んでいる」
ヴェンディグは夜風に乱された前髪をかき上げた。脳裏に浮かぶのは「自分も連れて行ってくれ」と懇願するレイチェルの姿だ。高貴な令嬢とは思えぬほど勇敢で、賢い少女だ。寄りかかるところなどなくても、一人で道を切り拓いていけるだろう。
背の上のヴェンディグが納得していない気配を感じたのか、ナドガが続けた。
「今は、お前に認めてもらいたがっている。あんなに美しく高貴な身分の令嬢であるのに、「お前が必要だからここにいていい」と許されない限り不安で仕方がないのであろう」
今すぐ追い出すつもりなどないのに、とヴェンディグが呟くと、ナドガは諭すように言った。
「もっとお前のこと教えてやれ。そして、お前も彼女のことを知るといい」
ヴェンディグは口を噤んだ。ナドガもそれ以上は喋らず、離宮に戻るまで静かな夜空を飛び続けた。