第27話
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いつもお茶の時間が終わった後はライリーがレイチェルを部屋まで送ってくれるのだが、今日は王宮に用があるらしく、お茶の時間が終わると手早く片付けて行かなければならないそうだ。ライリーはレイチェルに「送れなくて申し訳ありません」と謝ってくれたが、レイチェルももう一人で部屋にぐらい戻れる。
「それでは、私は部屋に戻りますね」
ライリーが出ていった後しばらくして、レイチェルもヴェンディグに断って席を立った。
普段なら、ヴェンディグは大して興味なさそうにレイチェルを見送るのだが、今日に限っては違った。
「待て」
呼び止められて、レイチェルは振り向いた。すると、椅子から立ち上がったヴェンディグがレイチェルの腕を掴んだ。
「ナドガの食事が心配なんだろ?」
「え?」
ヴェンディグがニヤリと笑ったかと思うと、レイチェルの腕がぐいと引かれた。
一瞬で引き寄せられて、レイチェルは目を瞬いた。至近距離にヴェンディグの顔がある。
腰に手を回され、ぐっと密着させられる。
「蛇の食糧は人の「欲」だ」
ヴェンディグがレイチェルの耳許で囁いた。
「ナドガのためを思うなら、お前が俺に「情欲」を向けてもいいんだぜ?」
レイチェルはぽかん、と口を開けた。
ヴェンディグの端正な顔が目の前にあって、レイチェルが少し背伸びをすれば、触れてしまいそうだ。
もしも、触れてしまったら——
「ぶっ」
不意に、ヴェンディグが顔を反らして吹き出した。
「間抜け面」
腰に回された手が外され、ヴェンディグはレイチェルから体を離して再び椅子に腰掛けた。
「侯爵令嬢ともあろうものが、隙だらけだぞ。男と二人きりなら警戒しろ」
ようやく、何を言われたのか理解して、レイチェルはかっと赤面した。
(情欲って……っ)
確かに、それもまた「欲」には違いない。違いないが、レイチェルのような生娘がそんなことを出来る訳が——いや、しかし、ヴェンディグの婚約者として認められているレイチェルには、彼にそれを向ける権利と義務があると言える。
(情欲って、だ、抱きしめられたい、とか、手を繋ぎたい、とか、そういう願望を抱けばいいのかしら?)
元婚約者のパーシバル相手にそんな願望は抱いたことはない。幼い頃から知っている相手という気安さもあって、一緒にいても緊張したり胸が騒いだりしたことはない。
だから、レイチェルは現在の自分の身に起きている現象がなんなのかわからなかった。胸がどっくどっくと暴れるように跳ねて、顔が熱くて、唇がわなわなと震えた。
「し、失礼しますっ!」
レイチェルは踵を返して廊下へ駆け出た。
扉の閉まる音がして、ヴェンディグはちらりとそちらを見た。
怒って出ていったレイチェルに、安堵すると同時にほんの少しだけ惜しいという気持ちが湧き上がってくる。
「……少しは警戒してもらわないとな」
レイチェルは何も意識していないようだが、彼女の現在の状況は危険だ。
十二年もの間、身内とメイド以外の女性と接していない飢えた男と同じ宮殿に暮らしているのだ。
おまけに、それが正式な婚約者だ。
「はあ……」
レイチェルの腰に回した手に残る温もりが、ヴェンディグを落ち着かなくさせる。ヴェンディグは思わず深い溜め息を吐いていた。