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死化粧

作者: ごごまる

 偉大な人と言えば、少し美化しすぎているかもしれません。

 話を聞く限りでは、やはり偉大であり、私も人の器としてあの方を認めている部分がありますが、果たしてあの方の全てを私が知っているかと問われればそうでもないように思うのです。

 それどころか、知りませんと断言できてしまいます。


 私はあの方の半生さえも知りません。

 幼き頃より働き、勉学に心血を注ぎ、妻子を養い、誇らしい地位と仕事を手にしたことは知っています。

 そして、それによって私も支えられていました。


 あの方の言葉は私の心を震わせ、父や母よりも汚すまいと己の行動を改めさせるきっかけでもありました。

 しかし、それがぼんやりとした夢のようなものだったと、最近知ることになったのです。


 死化粧は、大変美しいものでした。

 人は年老いると、皺のせいか猿のような顔になってしまいます。

 ですが、あの方は皺によって顔がひしゃげることもなく――こう言ってしまえば贔屓になるかもしれませんが――ハンサムであったように思います。

 だから安らかな顔は、必ずしも死化粧のみによるものではないのでしょう。

 死を美しいと形容するのは不謹慎でありましょうが、なるほど、私にはそれが大変美しく、高尚なものに思えました。


 また、同時に夢のようなものから覚めることになったのです。

 偉大だと思っていたその方も、存外呆気なく死ぬのです。

 これを失望と言ってしまえば、私の高望みが過ぎるような思いですが、あの方の確かなる人としての片鱗を見ることができたということでございましょう。


 だからといって、やはり死化粧を見る前ほど偉大な方だと思うことができなくなりました。

 それはあの方に対する関心が無くなったというような冷たいものではなく、純粋に失礼なように感じられたのです。

 美化――私が恐れるのはこれでした。

 美しい死化粧と同じく、やはりその方の思い出話は、その方を持ち上げるようなものばかりです。

 いいえ、そうあるべきなのでしょう。

 もしくは本当に、そう持ち上げられるほど素晴らしい方だったのでしょう。

 私もそう思います。


 ですが、なぜ、それを死体の前でこぼすのでしょうか。

 なぜ、化粧で美しくなった顔を最後に見て、その顔になったあの方に礼を言うのでしょうか。

 もっと広大な、等身大な、時間と姿があったはずなのです。


 私はその死化粧を前にして涙を流すことはありませんでした。

 誤解を恐れずに白状するならば、泣くことができませんでした。

 どうやっても涙は湧きませんでした。


 当然ながら、あの方を嫌っていたわけではありません。

 また、泣く価値のない人だったとも思うはずがありません。

 正真正銘、死を惜しむべき人でした。

 ただ、あまりにも、惜しむにはあの方のことを知らないように思えたのです。

 だから惜しいとか偉大だったとか、何も知らない私が判断するにはあまりにも失礼です。

 私なんかでは、到底釣り合わないように思えるのです。


 そして、やはりこれも薄情者の告白のように聞こえてしまいますが、死後に嘆くことに意味がないように思えたのでした。

 いいえ、やはり私はただの薄情者なのかもしれません。

 意味など考えず、感情的になるものですから。

 それなのに理性ばかりを携えている私は、残念ながら人より他人の命を惜しむことができないのかもしれません。


 生前、あの方から誇りであると言われたことがあります。

 私があの方の誇りならば、私にとっての誇りもあの方であると、言葉を与えられた時には喜ばしいと考えていました。

 それが今はどうでしょう。

 まるで呪いのように、その言葉が私を縛るのです。

 言葉に厚みがあればあるほど、その方が偉大であるほど、私の枷は重くなるのです。


 私はその程度の人間です――と言ってしまえば、あの方の誇りに泥を塗ることになります。

 しかしながら、それまでの功績を獲得したことがあるかと問われれば、やはり答えに困ってしまうのです。

 同時に、あの方の誇りをこれ以上傷つけてはならないと、がむしゃらになってしまいました。

 私は誇りであると言われたことに見合う人間にならねばならぬのです。

 私にはその責任が生じてしまったのです。


 あの方は何も気になさらないのでしょう。

 私が誇りとしての役割を放棄しても、その半生を薄っぺらい言葉で飾り立てても、善意は善意、悪意は悪意として受け止めてくださるのでしょう。

 その程度で人に失望する方ではありませんでしたから、そのように思えるのです。


 ですが、やはりこれも私が思っているだけであって、その真実を確かめることはできません。

 そう、不可能なのでございます。もう手遅れなのでございます。

 いいえ、やはりこう手遅れと言えば悲壮感のある悲劇になってしまいますが、私はやはり何も感じられぬ薄情者です。

 死化粧を見た一週間かそこいらで日常の移り変わりに適応しておりました。

 それどころか、移り変わることなどなかったのかもしれません。


 ただ、私に人の心があることを証明するのならば、先日の話をぜひともさせていただきたいところです。

 実は、あの方の肉声を撮っていたのです。

 もう3年ほど前の出来事ですが、それは元気で肉声からは覇気も見られました。言葉の重みは、全く健在でした。

 この頃からしてみれば、あの方の死化粧を見ることになるとはつゆ知らず、とは言えいつか亡くなる運命にあるのは人間誰しもそうでございましょう。


 恐らくあの方の肉声を撮っていたと知るのは私のみでございます。

 そして、姿を写す写真はあっても、声を残したデータは誰も撮っていないように思います。

 つまり、私のみ、あの方のもっとも晩年に近い声を持っていたのです。


 しかし私はこの肉声を誰に聞かせることもありませんでした。

 なぜかと問われると、さて、自分でもなぜ聞かせなかったのかわかりません。

 それは後悔の念ではなく、ただただ純粋に疑問に思う部分であります。

 予想しうる範囲では、恐らく私は周りの懐かしむ声を極力遠ざけたかったのでしょう。

 自分ではその化粧を美しいと感じながらも、他者の漏らす美しいという感想が煩わしかったのです。

 それは死体であり、肉の塊であり、そのうち容赦なく業火に焼かれるものです。

 あの方とただの肉を間違えるなぞ、許されるものなのでしょうか。


 いえ、これはあまりにも過激な表現だったかもしれません。

 死人を弔う精神は、何もつまらないものではないと、私もそう考えています。

 そこに意味はあると。


 葬儀に出、墓に参り、またこうしてあの方のことを語るほどです。

 もしかすると私が一番惜しんでいるかもしません。

 そう断言できぬのが、やはり私が私を薄情だと思う理由になるわけですが。


 ですが――そうです、私は自分に人の心がある話をしている途中でした。

 そうです。あの方の肉声を、私だけが持っていたのです。

 そして先日、私は知らずのうちにその肉声が消えていたことを確認したのです。


 残念な気持ちでした。

 あの方が何を言っていたのか、それは何となく覚えています。

 しかし、あの方が呆気なく死化粧を纏ったように、私の記憶も案外呆気なく靄に包まれるのでしょう。

 それがいつになるかはわかりませんが、むしろいつとは知らずに忘れるのです。

 今でこそ忌日や盆に思い出しますが、それがいつまで続くのかは私にも存じ上げぬことでございますから。


 これはあの方とは全く関係のない話であり、かつ死化粧を見る前の遠い日の出来事です。

 その日はある映画を見に行きました。

 そしてそれと同時に、この記憶もいつかは忘れ去ってしまうのかと哀愁に似た情を覚えたのです。

 そういうわけで私は、映画の半券を写真に残すことにしました。

 また同時に、この日を忘れまいと固く決意したのです。

 そのおかげで今もこうして語ることが許されています。


 しかし、どうでしょう。

 あの方の肉声は消えました。

 当然、死化粧を写真に残すなどと不謹慎なことはできません。

 加えて私は、今後さらに多くの死化粧を見ることになるのでしょう。

 今でこそ覚えている高尚さの感じられる顔が、また別の人間の顔に上書きされるのでしょう。

 そう思うと、肉声を失った後悔がより大きくなるような気がします。


 もうあの方に会うことはなく、死化粧も見ることはできず、私が訪れるのはその身代わりとなる墓石のみでございます。

 家紋と苗字の掘られた石――と申しますと、仏像もただの金属の塊として、また生物もただの肉の塊に見えてしまうのでしょう。

 だからここでは墓石を身代わりとして充分に相応しいもの、あるいはそう認識できるほど墓というものの文化が根強くありました。

 私は墓の前で手を合わせながら、季節の挨拶だの久しぶりだのと唱えました。

 墓石の前でしたが、それはきっと、墓石ではなくあの方へ語りかけていたのです。


 畢竟、私が何を言いたかったのかというと――いいえ、実は最初からそれを決めていなかったのです。

 申し訳なくというよりも、そう断言するのに申し分ない確信があります。

 結局、私自身が一番先程までの語りの意味を問いたく、そのうえ、なぜ私が薄情者であるのかの答えを見つけたかったのです。

 私による、私自身の探求だったのです。


 ただ、こうも自己完結をするようだと、どこか()()()()()ように見えるやもしれません。

 薄情者ぶっている。作家ぶっている、と。

 それについて私が反論できることは何もなく、逆に肯定することもないため、やはり私は何もわからないのであります。

 それがわからないのか、それともわかりたくないのかさえ、到底知ることはできません。

 自分のことさえ知ることができないのだと、知れている存在でございます。


 ですから、もしこの語りに誤りがあるのかを私が再度語る機会があれば、恐らくそれは死後になるでしょう。

 私もまた、化粧を被った後になるでしょう。

 その顔が穏やかであるかは、化粧によってそうならざるを得ないように思います。


 ですが、果たしてそれが本当に美しく、高尚な顔であるのかどうかは、化粧に包まれた私にしか分からぬことなのでございます。

 そしてまた、死化粧に似つかわしい最期でありたいと、それゆえに願うのです。

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