紫電飛ぶ〜着陸失敗は嫌なので二段式引込み脚なんてやめちゃいます〜
1941年12月。
この月、日本はアメリカ、イギリスおよびオランダに対して戦争を開始した。いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)のはじまりである。
ハワイ真珠湾への奇襲、マレー沖海戦、フィリピン攻略戦……日本は緒戦で次々と勝ち星を挙げていた。
そして、その一番の功労者は間違いなく、零戦や一式陸攻といった飛行機だった。
それは同時に、飛行機の優劣が戦争の勝敗を分けることになることも意味していた。端的に言えば、いまの飛行機よりもっとすぐれたモノをいち早く作り、まとまった数を前線に送った方が勝ち──そういうことになる。
そうした時流を日本の軍も航空機メーカーも敏感に感じ取っていた。川西航空機もその一つである。
「今の戦局で必要になるのはどんな機種になるだろう?」
「おそらく今後は蘭印やニューギニアといった占領地を守るためのヒコーキがいるでしょう。スピードと上昇力にすぐれ、重武装のヒコーキが」
「いわゆる局地戦闘機(局戦)というヤツだね」
「それなら、先にわが社で試作したN1K1十五試水上戦闘機からフロートを取り外して即席の局戦にすればイケるんじゃないでしょうか」
「よしそれで行こう」
川西航空機はこの新戦闘機のプランを海軍に持ち込んだ。海軍は「いいよ」とアッサリと許可を出した。この頃の本命は三菱航空機の十四試局戦(試製雷電)であり、川西航空機の作る局戦はせいぜい「失敗したときの保険」くらいの感覚だったのである。
こうして、新戦闘機は「仮称一号局地戦闘機」(一号局戦)と呼ばれるようになり、開発がスタートした。
しかし、いざ試作してみた途端、大きな問題に直面した。
「……アシ(脚)をどうやって仕舞おう?」
N1K1十五試水上戦闘機(この頃、水上戦闘機「強風」として採用されていた)は、水上戦闘機であり、離着陸の時の波しぶきから主翼を守るために中翼形式を採用していた(零戦などは低翼である)。しかし、陸上戦闘機である局戦に改造するにあたり、地面から主翼までの間隔が長すぎ、脚をどうやって引き込めば良いんだ……という大問題に直面したのである。
もともと、一号局戦は「強風」をフロート取っ払って引き込み脚つけよう、ぐらいにしか考えていなかったから、原設計の「強風」をほとんど流用する予定だった。
しかしこれでは、主翼を設計しなおしたりしなければ脚は仕舞えない。
「アシをしまうにはどうすればええんや……」
「二段式引込み脚にしたらどうですかね?」
「あかんあかん、そんな斬新すぎるもの取り入れて失敗したらどうすんねん」
「でも二段式引込み脚にすればほぼそのまま『強風』の主翼を流用できますけど……」
「確かに即席の局戦としてな?設計期間を短縮するってのは一つの要請やろうけどな?イザ実戦で脚の不具合で使いもんならんかったらアカンやろ。そっちのほうが大問題や」
「でも二段「この脚の設計図みてお前は不安にならんのか?ああん???」
「ソウデスネ」
二段式引込み脚は普通の引込み脚に比べて仕組みが複雑な上に至る所に油圧、油圧、また油圧……そして極め付けは見てるだけで折れそうな華奢すぎる脚の形……結局、この二段式引込み脚は「技術的にも実戦的にも不安しかない」という賢明な判断で取りやめになった。
しかしそうなると主翼の設計をやり直さなければならない。そこで問題になったのは「強風」では主翼に搭載していた20ミリ機関銃である。ハッキリいって主翼に脚しまったり再設計するにあたって「邪魔すぎる」のであった。
「うわーん今度は機関銃がぁ」
「しゃーない20ミリ機関銃取り外すしかねーんだわ」
「でもどうするんです?」
「機首の7.7ミリ機銃を陸軍サンの12.7ミリ機銃に取っ替えればいいねん」
「陸軍がそれを許しますかね?」
「なーに頭下げるくらい安いもんだて」
川西航空機はわざわざ陸軍と中島航空機に頭を下げて、同時期に活躍していた一式戦闘機「隼」の機首の12.7ミリ機銃とプロペラ同調装置の生産許可を取り付けた。もちろんユーザーである海軍には丁寧にことの成り行きを説明して事なきを得た。
そうして一年が経ち、仮称一号局戦は完成した。1942年12月。粉雪がちらつく中を、一号局戦は飛び立った。最高時速は594km/hを出した。これは陸軍の液冷戦闘機、三式戦闘機「飛燕」に引けを取らないスピードだ。急降下性能にも優れ、800km/hでも機体にはシワが寄らなかった。機首の12.7ミリ機銃2丁は、弾道が安定しており、また、炸裂弾であるマ103を搭載していることから、十分な威力を発揮した。
年が明けた1943年1月。海軍は一号局戦をN1K1-J「紫電」11型として採用した。「J」とは局地戦闘機を意味する。この頃、本命視されていた三菱「雷電」がもたついていたこともあり、急きょピンチヒッターとして登板することになったのだ……が、しかし、大量生産向きでなかったことや、生産ラインの構築に手間取り、本格的に部隊に行き渡るようになったのは1943年の後半であった。
「紫電」11型が組織的な大規模戦闘に投入されたのは、1944年10月の台湾沖航空戦だつた。数に勝る米機動部隊は、フィリピンを攻略する手始めとして、フィリピンに近い台湾の日本陸海軍航空基地を襲ったのだ。
大挙して来襲する米海軍の新鋭戦闘機F6Fに対し、「紫電」を装備した海軍戦闘機隊は勇戦する。やはりここでモノを言ったのは、F6Fとほぼ互角のスピードに、機首に装備された12.7ミリ機銃だ。
上空からの奇襲で落とされるF6F、急降下して逃げようとしたところを距離を詰められて落とされるF6F。しかし、多勢に無勢、数の力で米機動部隊はゴリ押し、日本陸海軍航空部隊は次第に数を減らし、台湾沖航空戦は日本の敗北で終結する。
とはいえ、米機動部隊も少なからぬ損害を負い、補給のために一旦中部太平洋マーシャル諸島へ撤退した。そして、フィリピン攻略は1ヶ月先延ばしされるのだが、これが季節外れの超大型台風の襲来によって滅茶苦茶な目に遭い「元寇以来の神風吹く」と称されたのはまた別の話。
それはさておき、日本軍に新型機あらわるの報告を受け取った米軍は、この未知の新型機を「ジョージ」と名付けた。そして、零戦以来となる「ジョージと遭遇したら単機で格闘戦はやめるんだ!」と前線の戦闘機隊に注意を促した。
しかしその後もジョージにやられるF6Fは後を絶たない。
「追いつかれる!振り切れない!」
「畜生っ!サムがやられた!」
「繰り返す……編隊を密にせよ……」
「ぎゃあああっ」
「なんだアイツは?ジーク(零戦)より早いぞ!!!」
「誰だ日本人はザコだとか言ったやつは!!」
「あれが新人とでも?!どうみてもベテランじゃねぇか畜生!!!」
「誰かコルセアを!ええいムスタングを寄越せ!!ええい駄目ならフライパンでも構わん!!!」「最後のはおかしいだろ?!」
戦後、来日した進駐軍がジョージ……もとい「紫電」シリーズを一通り持ち帰って評価した結果、こう評した。
「ジョージはわれわれのF6Fに対する日本海軍の回答である」と。