XCIII 退職者エイブラハム・ハーシュマン
トマスが審判の位置について、ブランドンと私の試合が始まる。私と王子の試合はどうなったのかいまひとつわからないけど。
「セントジョン、サーブしてくれ。」
ブランドンが意気揚々とモーリス君に命じる。
モーリス君は動かない。
「セントジョン?」
モーリス君は冷ややかにブランドンを一瞥した。
「リアルテニスは召使いのサービスで始めるものです。あなたの召使いになった覚えはありません。」
ブランドンの甘いマスクが引きつった気がした。
「この場だけでもどうにか、ならないのか。」
「あなたを目掛けて投げ入れても良いなら、そうしますが。少しは日頃の行いを見直して、自分の身分を弁えたらいかがです。」
モーリス君はブランドンが大嫌いみたい。爵位のない私には優しいモーリス君だけど、ブランドンの身分を馬鹿にする発言は多い。女性にだらしがないのは育ちが悪いからだと思っているのかもしれない。
ブランドンは無言に怒りを込めて、前に進み出た。
「セントジョン、私の父親は身分の低い旗手だったかもしれない。しかし私は内戦で勇敢に死んだ父上のことも、私を引き取って宮殿の馬丁をしながら世話をしてくれた叔父上のことも、誇りでこそあれ恥に思ったことはない。お前の前で萎縮する筋合いはない。」
低い声がコートに響く。ブランドンのお父様、戦死していたんだ。
旗手や馬丁は武器を持たないから、セントジョン家はもちろん、レミントン家やニーヴェット家よりも身分はだいぶ下になる。そのかわり王族との触れ合いが多い場合もあって、こうして王子に近侍して宮殿で育っているのはそのせいかもしれない。
内戦でお父さんが戦死、って言うことは私たちより2〜3歳は年上かしら。お父さんの顔を覚えずに育ったんだろうと思うと気の毒になる。
「従者のハーシュマンはどうしたのだ?」
王子がブランドンに尋ねた。
「奴は根性なしでした。私が奴の婚約者と一夜を過ごしたくらいで辞職して行きました。妊娠もさせていないというのに。それ以来私は耐えがたい不便に悩まされているのです。」
返せ。私が同情に費やした30秒を返せ。
現世のスタンダードでも従者の恋人に手を出すのはアウト。パワハラに近い概念だって存在する。スザンナといい、私もモーリス君と同じく、庶民とは分かり合えない気がしてきた。前世だと私も一般家庭育ちだったけど、現世は住んでいる世界が違うから、まず話が通じないよね。
ハーシュマンさん、退職金もらえたのかな。この下半身男の高そうな装束を剥ぎ取って送ってあげたい。
「自分で投げれば良いでしょう、ブランドン。」
私は同情のかけらもない目でブランドンに冷ややかに言い放った。
「お前はそこの衛兵に投げさせるんだろう。私だけ自分で投げるのはお前と対等じゃないみたいで嫌だ。」
大人気ないブランドン。頭を含めて上半身は大人になれていないのね。ヒューさんに投げてもらおうと思っていたわけじゃないけど、今の流れからいってモーリス君には頼みづらいし、そうなりそう。
私はギャラリーの王子の方を向き直った。
「殿下、ブランドンは圧倒的な人望の不足によって不戦敗となりました。先ほどの試合の続きをいたしましょう。」
「おいリディントン!ハル王子に頼み込むな!」
騒がしいブランドンを睨みつける。
「ハーシュマンさんは宮殿が用意した従者だったんでしょう?貧しいご実家が従者を雇えるはずないものね。その従者の心を踏みにじっておいて根性なし呼ばわりなんて、あなたの快適な暮らしのために従者を雇った王子殿下、さらには国王陛下のメンツを潰すものです!」
ブランドンは押しだまった。王子は困惑顔をしている。
「かわいそうなハーシュマンさん、自分より身分が低いかもしれないセクハラ男に婚約者を寝取られて、不便だの何だの文句ばかり言われたら、私だって即座に辞表を出すでしょう!」
「セクハラとは?」
「あなたみたいな下半身が頭を支配している人のことを古代ではそう呼んだの!」
ちょっと違うけど詳しい定義は今重要じゃない。王子のほうに向き直る。
「殿下、私自身爵位はありませんし、決して門地や家柄で人を判断することはしません。モーリス君も私も、単純に人間としてブランドンを軽蔑しているので、こんな相手と試合をするくらいだったら棄権させてください。」
「リディントン、気持ちはわかるが良く聞いてほしい。」
すっかり困り顔の王子。王子の真剣な顔は男爵ほどの破壊力はない。この人は笑顔が似合う。
「完璧な人間などこの世にはいない。私もチャールズの叔父に馬の扱いを習い、幼い頃からチャールズと親しくしているが、彼が遭遇した差別は側で見ていても相当なものだった。さらに両親と死別し、叔父と馬と育ったチャールズが、愛情に飢えてしまうのも仕方ないことと言えるだろう。チャールズが他人に対して強く出るのは、いわば劣等感の裏返しでもある。チャールズよりも高貴だと自負するのならば、彼の不完全さを受け入れる懐の深さを持ち合わせて欲しい。」
気の毒な身の上に同情しろ、っていうことみたいだけど、ブランドンを甘やかしてきた王子にも責任はあると思う。明らかにつけ上がっているし。
ヒューさんが目配せして、王子に反論しないように合図している。そうね、ここは穏便に行った方が良さそう。
「わかりました、殿下。しかし、ブランドンを哀れんでもブランドンが高貴になることはありません、そこは分かっていただければと思います。」
「・・・忠言として受け取っておく。」
王子は一瞬「お前に何がわかる」と言いたそうな顔をしたけど、思い当たる節があったのか言い淀んだ。
「ではヒューさん、このままでは不幸な生まれのブランドンがあまりにも哀れだから、仕方なく施しとして、可哀想なブランドンのためにボールを投げて差し上げていただけますか?」
ヒューさんは周りを窺って、コートのブランドン側に入るとボールを投げ込んだ。
「この屈辱・・・忘れてなるものか・・・リアルテニスで叩きのめしてくれる。」
怒りに燃えた目をしているブランドン。つくづくイケメンがもったいない。さて、お手並拝見と行きましょうか。
前の章で王子が主人公を「レミントン」と呼ぶミスがありました。作者のミスで、先ほど訂正しました。指摘してくださった方、本当にありがとうございます。細かく読んでいただけてとても嬉しいです。
リアルテニス編、XCVで終わる予定です。もうしばらくお付き合いください。
お父様の名前はニコラス・レミントンですが、誤ってIIでチャールズ・レミントンになっていたため訂正しました。




