XCII 無敗記録保持者ヘンリー王子
私と王子はコートの定位置についた。審判はブランドンみたい。
王子がトマスに声をかける。
「ニーヴェット、サーブしてくれ。」
「はいっ。」
ペンギンみたいな服を着たトマスが出てきて、ボールを放り投げる。
リアルテニスはなぜか召使いがサーブをするという決まりがある。良く分からないけど、貴人はサービスを提供するんじゃなくて受ける側だっていうことだと思う。
レシーバー側の奥か右側の壁には軒みたいに傾斜のついている部分があって、召使いがそこに向かって素手でボールを投げて試合開始になる。召使いはすぐにギャラリーに退場して、そこからはラケットを持った二人の勝負になる。
トマスの投げたボールはゴンと音を立てて軒にあたり、私のコートの深い位置に落ちた。
後ろからくるボールを押し出すようにして、少し低い軌道で王子のコートにボールを打ち込む。
ボールはネット中央の弛んだ部分の上すれすれを通って、王子のコートの中くらいの位置でバウンドした。
「はっ!」
難しい低いバウンドだったけど、王子が難なく打ち返す。ちょっと古風な掛け声はともかく、フォームはすごく綺麗だった。少し腰を落として、スッと振り切るように打つ王子。
リアルテニスをする王子様、ってすごく絵になる。前世にそういう漫画なかったっけ。
ボールは勢いよく私の横の壁に当たって、そんなに難しくない位置でバウンドした。リアルテニスは壁があるおかげで、王子みたいな肉弾派が思いっきり打ったボールも、壁に当たって威力が落ちたところで打ち返せるっていう、私には嬉しい特性がある。
「えいっ!」
今度は王子から見て右後ろの角を目掛けて打ってみた。横の壁に擦れるように当たったボールは後ろの壁にも当たって、難しいバウンドになる。
「くっ!」
王子はすくい上げるようにしてボールを打つ。あまり高く上がらないようにしたみたいだけど、スピードのないボール。
私は前に出て、ノーバウンドで流すようにボレーをした。ボールはトマスが佇んでいる奥のギャラリーに吸い込まれる。
「・・・リディントンのポイント、15対0」
悔しそうなブランドンの声が響く。
「すごいです聖・・・リディントン君!」
「さすがですルイー・・・ス様!」
二人称が定まらないモーリス君とヒューさんがギャラリーで騒いでいる。これくらい盛り上がるなら男爵も連れてくればよかった。
「やるなリディントン、それでこそだ。」
王子は闘志に火がついたような顔をしている。
でもこの試合、私が勝てる。
ゴムがないせいで、リアルテニスのボールはあんまり弾まない。大体ボールの底をスライスするみたいな打ち方になる。特に背の高い王子はボールをすくうように打たないといけないから、王子の腕力が活躍する機会はあんまりない。
「ニーヴェット、サーブしてくれ。」
「はいっ!」
トマスが二級目を投げ入れる。今度は王子の後ろのボックスを狙ってみようかしら。
ボールを少しふわっと浮かせる。放射状の軌道でボックスを目掛けて飛んでいくボール。
「そうはさせない!」
王子は漫画の登場人物みたいな発言をすると、ボックスを庇うように深い位置からノーバウンドで返してきた。ボールは高くあがって、私の左の壁、ついで後ろの壁に連続してどんどんと当たった。それに対応して私もくるくる回る。
「なんて小回りの良さだ・・・」
審判ブランドンも私に感心したみたい。
くるくる回るのに気を取られていたけど、王子は奥のボックスを守る位置から動いていなかった。それなら・・・
「それっ!」
私のコートの壁に早いボールを打ち込む。いつもなら「それっ」とか言わないんだけど、何だかスポ根漫画的な雰囲気に飲まれていた私は掛け声をかけた。
「なにっ!」
王子は慌てて前に走り込んだけど、ボールは鋭角で反射して、王子のコートの浅い位置に落ちた。王子が拾おうとしたボールがネットにかかる。
「なっ・・・リディントンのポイント、30対0」
不満そうなブランドンがコールをする。
「レミントン、心理戦もできるんだな。」
トマスはすっかり感心したみたいで、私の呼び方を間違えている。でもみんなガヤガヤしていて気付いてないと思う。心理戦をしたつもりはないけど、1ポイント目で奥のボックスを狙ったから王子の戦略が後手に回ったのかもしれない。
「私をここまで苦しめるとは、敵ながらあっぱれだ、リディントン。」
息を整えて、最高の笑顔を見せる王子。ひょっとして最近になって騎士物語か何か読みました?
「ニーヴェット、サーブしてくれ。」
「はい。」
トマスはさっきまでよりも親切じゃない投げ方をして、ボールは軒の上で2バウンドした。勢いなく落ちたボールを、王子のコート奥深くに打ち返す。
王子の後ろの壁にぶつかったボールは、王子が打つ準備が十分にできるくらいのスピードで落下した。
「覚悟しろリディントン!」
王子が凄まじい速さでボールを切った。ボールはビュンと音を立てて、私の後ろの軒、ギャラリーの上の軒を0.1秒くらいでバウンドする。雷鳴みたい。
その後私のコートでバウンドしたボールは、今度はギャラリーと反対側の壁に当たった。偶然近くにいた私は、何とか追いついてラケットの先にボールを引っ掛ける。ギリギリで当たった。4バウンドしてもまだこんなに早いなんて。
私のラケットを掠めたボールは、ネットの上で弾んで、何とか王子側のコートに落ちてくれた。ネットを掠めて勢いがなかったボールはそのまま2バウンドする。王子はというと、さっきの必殺技が返されるとは想定していなかったみたいで、打ち終わったままの綺麗なポーズのまま固まっている。
「・・・チェース、第二ギャラリー。」
唖然とした声でブランドンがアナウンスする。
相手コートでボールが2バウンドしたときはまた謎のルールがあって、次のラリーで私が王子コートの一定の区画にボールを落とせばポイントになる。
王子は真剣な眼差しで私を見つめていた。
「私の秘技、クロスファイアを倒すとは。リディントン、お前は一体・・・」
王子、中二病なのかもしれない。
いやすごかったよクロスファイア?見た目からして「十字砲火」っていう命名も的を射ているけど、自分で秘技って言わなくてもいいよね。
「ニーヴェット!」
「はい」
トマスが投げたボールは、軒に当たったあと今度は打ちやすいところに落ちた。第二ギャラリーあたりを目掛けてすっと打つ。
「リディントンのポイント、40対0・・・」
王子が出る幕もなく私はポイントを確定させた。後1プレイでこのゲームいただき。
アナウンスした後少し呆然としていたブランドンが、何を思ったかツカツカとコートの王子に歩み寄った。
「ハル王子、リディントンの奇抜なプレースタイルに惑わされて、このまま王子の無敗記録に土をつけるわけにはいかない。私が前座になって、リディントンの化けの皮をはいで見せよう。」
それってフェアじゃないよね。私は王子のプレースタイルを見られないんだもんね。
「チャールズ、奇襲に破れるのも敗北の一つだ。不慣れだった、情報が足りなかった、というのは言い訳にはならない。」
王子は諭すように言う。二人の体格と格好も合わせて何だか騎士同士が話している感じがするけど、一応テニスなんだよね。
「しかし、ハル王子の輝かしい無敗記録が・・・」
「チャールズ、良く聞いて欲しい。無敗記録にこだわるあまり、私たちはリアルテニスそのものの喜びを忘れていなかっただろうか。記録にがんじがらめにされて、ミス覚悟で奔放にリアルテニスをすることを躊躇ってこなかっただろうか。チャールズ、お前も私も、記録が途切れることを恐れているが、それはつまり記録のせいで不幸せになっているのだ。記録が私たちの気分を良くする時代はもう過ぎ去ってしまったのだよ。記録を作った過去の自分から脱皮するには、ときに記録を崩す痛みを覚えなければならない。」
王子は良いことを言っているけど、これが宮廷無敗記録じゃなくてもっと真面目なテーマだったらなお良い。
ブランドンは見るからに感銘した様子で、ウェーブのかかった不思議なダークブロンドの髪を揺らした。
「ハル王子・・・いつもあなたの美しい心に、私は打たれるばかりだ。」
「チャールズ、自分らしく生きるには無垢な心が必要だということだ。崩れた城をつぎはぎするより、新しく作る方が望ましいときもある。」
二人にとってリアルテニスは戦場なのかもしれない。王子は危険な馬上槍試合もするみたいだから、スポーツへの真剣さは頭が抜けているのかも。
私にとってリアルテニスはホビーなんだけどな。
「ハル王子、王子のためにも私は全力を尽くします。やらせてください。」
「そうかチャールズ、覚悟はわかった、リディントンは強敵だが、精一杯頑張って欲しい。」
王子の餞別を受けて、ブランドンがコートに残った。
えっ!?
今の流れからいって王子がプレイを続けると思ったよ?見ていたみんながそう思ったよね?何で王子しれっと観客になってるの?話がつながらないじゃない!
私の40点はどうなるの?王子が帰ってきたときに繰り越しできるの?
この世の不条理に想いを馳せながら、私はまたレシーブの構えをとった。