XCI 選手ヘンリー王子
部屋に戻った後、スザンナに手伝ってもらってテニスウェアを着るのに、そこまで時間はかからなかった。
ゴンゴンとドアをノックする音がする。
「ルイーズ様、お着替えはお済みですか。」
ヒューさんが迎えにきたみたい。
「済んでいるわ。今行きます。」
「本当ですか!?」
ヒューさんの驚いた声がドアの外でこだました。さっき待たせちゃったから、また辛抱の時間が待っていると思っていたんだと思う。ヒューさんにはちょっと申し訳ない。
リアルテニスウェアの下はタイツと違って膝下で縛る中位の丈のズボン。上はひらひらした服を腕で縛って、手袋をはめる。シャツの首回りはいつもの従者服よりも開いていて余裕がある感じ。長い白い靴下をとぴったりした茶色の革靴を履いて、最後にピンクのベストを着て完成。何でベストを着るのかはよくわからないけど、慣例みたい。
ノリス君のサイズは私にぴったりだった。胸に余裕がないかと思ったけど、残念ながらそうでもなかった。もちろんコルセットをしているせいだけど。
「いい感じね。」
全身を眺めたスザンナも頷いた。基本的にはひらひらの多い白い服にピンクのベストを羽織っただけだけど、そんなに悪い見た目ではないと思う。
「ありがとうスザンナ、ドアを開けて。」
ドアが開くと、ヒューさんの横にモーリス君も立っていた。どうやら私を急かさないことにしたみたい。二人ともさっきの格好のままでウェアは着ていない。
「とても可愛らしくていらっしゃいます、ルイーズ様。」
「麗しくて目が眩しいです、聖女様。」
二人とも源氏物語並みの賛辞をくれたけど、王子が仕立てさせたノリス君の服だし、褒められてもそこまで嬉しくない。
「じゃあ行きましょう。コートの位置はご存知?」
「教会と庭園の間、西側にございます。」
ヒューさんは宮殿の地理に詳しそう。西側はあんまり行ったことがないけど、ついていけば問題ないはず
ヒューさんの先導で廊下に出ると、さっき馬場に向かった時とは反対に、教会の北側に沿って西側に歩いていく。
モーリス君の後ろを歩いていると、何だかこのベージュの髪を撫でたい衝動に襲われるけど、また「ああっ、せいじょさまあ」ってなられても困るから我慢する。
「そういえば、モーリス君はリアルテニスをしないの?」
「残念ながら、僕にはいまひとつ楽しさがわからないのです、聖女様。」
「そっか・・・」
モーリス君は体を鍛えたほうがいい気もするのだけど、リアルテニスで亜脱臼が再発するのも怖いから勧めないでおく。
教会を通り過ぎると、もう一つ小さな教会みたいな建物が見えてきた。
「あれがコートです。」
「え、本当にあれがコートなの?」
ヒューさんが指差した建物は石造りの立派な建物だった。レミントン家のコートは煉瓦積みの簡易なものだったから、こういう華美な建物にはびっくりする。
リアルテニスは四方を壁に囲まれたテニスみたいな競技で、スカッシュみたいに壁に当てて相手のコートに落とすのも有効になる。ボールをネットにかけるか、天井に当てるか、あるいは自分のコートにボールが2回バウンドすると相手のポイント。コートの片方の横側だけは、壁に窓が空いて網がかけられたギャラリーという観戦スペースがあって、手前のギャラリーにボールが行くとアウト、一番奥のギャラリーに入ると自分のポイント。私みたいな前世テニス経験者にはルールは割とわかりやすい。もちろん、サーブ側とレシーブ側でコートが違ったり、赤いボックスにボールを当てるとポイントになったり、細かい謎ルールはいっぱいあるけど。
開いていた扉からギャラリーに入ると、コートに王子とブランドンが立っていた。
王子は膝上まである赤い上着に黒いタイツと革靴姿。肩パッドをしていないみたいだけどやっぱり肩幅は広いみたいで、胸部分の装飾で胸筋がアピールされる作りになっている。王子が仕立てさせたノリス君のウェアと大分構成が違うのはなぜかしら。
一方のブランドンは緑の上着に灰色のベストを着て、足首で縛る黒い長ズボンに革靴を履いている。悔しいけど三人の中では一番見栄えの良い格好。前世で川釣りするダンディなおじさんの服装に近いものがあるけど。
「遅かったなリディントン。怯んでしまったかと心配したぞ。」
「申し訳ありません、殿下。」
一応謝ったけど、王子は楽しみな表情をしていて、特に怒った様子はない。ライオンみたいな金髪が跳ねている様子から見ると、ブランドンと軽く打ち合った後みたい。
ギャラリーからネットの横にある隙間を通って、王子と反対側のコートに入る。
「網が緩んでしまったな、チャールズ、ニーヴェットを呼んできてくれないか。リディントン、少し待っていて欲しい。」
ネットをセットする担当は決まっているみたいで、王子が自分でやるという発想はなさそう。話し合う王子とブランドンをよそに、私は屈伸をする。
「どうしたのですか聖女様。」
ギャラリーにいるモーリス君が目を見開いていた。
「これは準備運動よ。」
「準備運動?」
準備運動と整理運動をする文化がないからこそ、健康な若者にも私のマッサージの需要があるのけど、レミントン家でも広めた準備運動をせっかくだから宮殿でも定着させてみたい。
「こうやって体を動かして、神に勝利を祈るの。モーリス君も一緒にどう?」
「これが聖女様の祈り方なのですか、変わっていますが、試してみます。」
少し恥ずかしそうにぎこちなく動くモーリス君。
考えてみれば女性用のリアルテニスウェアはスカートだから、屈伸とかやらせてもらえなかったのよね。すごく久しぶり。
「何をしているんだ、リディントン。」
王子が不思議そうに尋ねてくる。純粋な興味みたいで不審感は特に感じない。
「着慣れない洋服が動きを制限しないかチェックしていたのです。それより、ラケットを貸していただけますか。」
「ああ、あそこにあるから取ってくるとしよう。」
ネットは他人任せにしていた王子だけど、私のラケットは直々にとってきてくれた。
「恐れ入ります。」
前世のテニスラケットよりも硬くて重いラケットを受け取る。形はバドミントンのラケットを少し大きくしたような感じ。
「コートでは立場は関係ない。こういう場所に身分を持ち込んでも興ざめだからな。正々堂々戦おうじゃないか。どちらが勝っても、試合後は笑顔で語り合えるようにしよう。」
王子が笑顔で握手をしてくる。笑顔が眩しい。私みたいな目下のものは手袋は外すのが礼儀だったかな。
「よろしくお願いします、殿下。」
私の2倍近くはありそうな大きな手を握る。
ちょうどブランドンに伴われたトマスが現れて、ネットを適切なたゆみに調節しているところだった。黒い服と半ズボンに白いベストとタイツっていう、何だかペンギンみたいな格好をしているけど、今回はプレイしないみたいだから注目を浴びずに済みそう。
トマスの努力の結果、両端の高さ5フィート、中央3フィートというルール通りにたゆんだネットが実現していた。
「じゃあ、このままハル王子がサービス側のコートで始める。」
ボールを渡しながらブランドンが宣言したけど、コートはコイントスで決めるんじゃないの?
何だか接待ゴルフなのか真剣勝負なのかわからなくなってきたけど、とりあえず私はレシーブの構えをとった。




