VIII 同乗者フランシス・ウッドワード
私が驚いてぽかんとしていると、馬車が石に当たったのか激しく揺れた。バランスを崩して、男爵の方に身を投げ出す形になる。
男爵は華麗に私をよけて、私は椅子に正面衝突した。
「痛いっ。」
「危ない、魔法にかかるところだった。」
男爵はホッとしたように笑った。
「ひどい。自分の身を心配してレディを助けないなんて。顔に傷ができたらどうするの。」
「悪かった。もちろん心配ではあるよ。でも君に誘惑されてしまってはとても困るのだね。君もそう思うだろうフランシス。」
男爵は全く反省している様子がない。
こうなったら強引にマッサージしちゃおうかしら。馬車の中で逃げ回る男爵を見るのは楽しそう。でもマッサージが思ったほど効果がないことがバレたら、私の身の置き場がなくなる可能性もある。
「はああ。偶然触っただけじゃマッサージはできませんよ。ちゃんと受ける人の体が安定していないと。」
「そうなのか。とすると着替えよりも王子様の起床時が一番狙い目になるね。あの王子は朝に弱いから、きっと文句を言ってこないだろう。」
ヘンリー王子の朝の様子を思い出しているのか、男爵はまた軽く笑った。
「その件ついて質問があります。」
そう、確認しないといけないことが山ほどある。
「どうぞ。」
「まずお風呂のとき、王子様はお風呂用のワンピースをきているのですよね。」
メイドがレディのお風呂を世話するときは、レディは白いワンピースみたいな服を着たまま湯船に入る。レミントン家でもそうだった。
「いや、着ないよ、婦人じゃあるまいし。」
「シャツも着ないんですか。」
こっちの世界では男性のシャツ一枚は裸と同じと考えられているらしくて、兄弟や父親でもシャツ一枚で家を歩いているところは見かけない。ちなみにパンツに当たる下着をはく文化がないみたいで、丈の長いシャツの下は何も着ていないらしい。
「着ないよ。そうか、君は男が風呂に入るところを見たことがないのだったね。」
男爵は少し困ったような薄笑いを浮かべた。
「じゃあ・・・全裸なの?」
男の人の全裸なんて見たことない。兄さんと弟にはマッサージ用のボクサーを縫ってあげて、マッサージのとき半裸になってもらったことはあるけど、二人ともちょっと抵抗があったみたいだった。前世の幼稚園児の頃、お父さんにお風呂に入れてもらっていたと思うけど、詳しくは覚えてない。
「スタンリーを剥いでおいて何を今更恥ずかしがっているんだい。」
「剥いでませんってば!」
スタンリー卿の事件はちゃんと調査したのかしら。裁判の文書を読んだだけだったら男爵はかなり勘違いをしている可能性がある。
「そりゃあ見るに耐えない男がいるのは知っている。だが、私は水浴びのときにお見かけしたのだが、王子の体はかなり見応えがあると思うよ。同性の私からでは見方が違うかもしれないが。」
「そういう問題じゃありません。見応えってなんですか見応えって。」
第二王子の体格がいいのは聞いたことがあるけど、じゃあ全裸を見たいかと聞かれれば答えはノー。
「とにかく、私をお風呂から外してください。レディの名前に傷がつきます。」
「しかし、君が魔法をかけるには相手が肌を晒すといいのだろう。全裸で無防備のときが絶好のチャンスじゃないのかな。」
「違います!」
何その攻撃力アップみたいな言い方。もちろん、上半身だけ脱ぐというのが一般的じゃない世界だから、背中のマッサージにはその方が便利かもしれないけど、マッサージしているこっちが動揺するから結局意味がないと思う。
男爵は微笑を湛えたままため息をついた。ため息をつきたいのはこっちよ。
「仕方ないね。風呂はそんなに頻繁ではないだろうし、他の人に代わってもらおう。アーサー王太子についていた美少年を、人手不足を理由にヘンリー王子のそばに回してもらった。彼が担当してくれると思う。」
「人手不足なんですか。」
「うーんとね。」
男爵は顎に手を当てて目を泳がせた。言い訳を考えているような顔だ。
「王子はとにかく女を近づけないからね。メイドがするようなベッドメイキングや掃除も従者や下僕の仕事になるわけで、あまり人気のある職場ではない。それに、アーサー王太子殿下は次期国王だから、従者にも有力な家の少年たちがついているが、ヘンリー王子は将来に不確定要素が多いからね。軍人になると周りに思われているが、聖職者になった場合は従者だった者たちにそれほどメリットがない。」
「そうですか。」
確かに私が潜り込めるくらいなのだから、人気がない気はしてた。
「だから職務領域も曖昧になっている。風呂の世話も本来は誰の仕事と決まっているわけでもなく、手の空いた従者がすることになっている。もっとも、これは私の勘だが、いずれ王子は君を風呂担当に指名してくると思う。」
「ちょっと!風俗産業みたいなこと言わないでください!」
「風俗がどうしたって?王都とノリッジで風呂文化が違うとは思わないけどね。」
そういえば、こっちの世界だと意味が違う単語がいくつかある。気をつけないと。
「言い間違いです。とにかく、風呂は担当しないって書き加えておきますね。」
羽ペンとインクを取り出して、巻いてあった契約書を解く。
「ちょっと待った、なんだいその羊皮紙は。」
男爵の声が少し動揺しているように聞こえる。
「契約書ですよ、私と男爵の。」
弁護士の娘を甘く見ていると痛い目にあうんだから。