LXXXVIII 逃亡者ヘンリー・ノリス
トマスは大股で歩くから、追いつくのは大変だった。
「トマス、待って!さっきはありがとう。助かったわ。」
「特に何をしたわけでもないけどな、どういたしまして、レミントン。」
振り返ったトマスは呑気に返事を返してくれる。
「それと、ルイス呼びしてくれてありがとう。知り合い感が増してよかったと思うの。」
「すまないな、お前の新しい名字、とっさに出てこなくてな。」
頭をかくトマスに、思わず笑ってしまう。
トマスは昔から名前を覚えるのが苦手だった。名前に限らず土地とか固有名詞全般を間違えるのよね。
「リディントンよ。トマスらしいわ。」
「リディントンか、長いからルイスでいいか?」
「長さはレミントンと変わらないじゃない!」
二人で笑う。さっきみたいな緊張感のあるシーンの後だと、トマスと話すのが落ち着く。
「私からもお礼申し上げます、ニーヴェット。」
モーリス君が恭しく頭を下げる。
「ええと、君はレミントンの何なの?」
「弟子です!」
困った様子のトマスに、モーリス君が自信満々に答えた。
あれ、私は入門者を募集した覚えなんてないけど・・・
「レミントン、一体どんな手を使って手懐けたんだ?」
マッサージです。あとは亜脱臼を治してあげただけ。
そうトマスに言って通じるかしら。
「聖女様を悪く言わないようにお願いします。」
「聖女様って誰だ?」
トマスの表情に困惑の度合いが増している。
「ええと、後で詳しく説明するわ、トマス。とりあえずノリス君にウェアを借りないと。」
ノリス君を探して見回すと、男爵の黒服が目に入った。
「まだいたの、男爵?」
「さて、私を呼んだのはどこの誰だったかな。」
男爵は嫌味ったらしい薄笑いを浮かべているけど、私は先ほどの非礼を許すことはない。
「男爵、王子は国王陛下への挨拶もそっちのけでリアルテニスをするそうですけど、誰かに聞かれたら男爵が王子に暗黙の了解を与えたと言っておきますね。」
誰も新人の従者に事情を尋ねないだろうけど、私の立場だと男爵をいじめ返す材料が少ないのよね。
「やれやれルイス、何が目的か言ってごらん。君の機嫌が悪いと困るのは私だけではないからね。」
男爵はまたドレスかなんかで釣ろうとしているかもしれないけど、私はその手にはのらない。
「復讐です。レディの体格をからかう人には、手のひらのマッサージは向こう1ヶ月間しませんからね。」
男爵の微笑が少し崩れた気がする。「絶対しない」っていうと制裁効果が薄い気がするから1ヶ月にしておく。
「私としては助けてあげたつもりだったのだが。それよりセントジョン、聖女が復讐をしたら聖女じゃなくなるよ。止めなくていいのかな。」
「統治には信賞必罰が肝心と言いますから。」
さすがモーリス君。ちゃんとレディの気持ちをわかってくれる。たまに本人がレディよりも乙女なのが玉に瑕だけど。
「待った、左の頬を打たれたら、右の頬をも差し出すのが神の道ではないのかい、セントジョン。」
「左右逆です。」
モーリス君と男爵はあんまり相性が良くないみたい。私の到着初日からこんな感じだったけど。モーリス君、仲のいい友達がいなさそうで少し心配になる。
「つれないな。ところでルイス、留守番の従者全員でヘンリー王子を出迎えるはずだったのではないかな。」
「そうですよ。私もモーリス君もいるし、男爵も巻き込んだけど問題ないでしょう?」
男爵は渋い微笑を見せた。
「フランシスはどうしたのかな。」
「あっ」
そういえばフランシス君も従者だった。すっかり忘れてた。
「聖女様、ご安心ください。王子は大抵の場合ウッドワードがいたかどうかに気が付きませんから。横に立っていたということにしましょう。」
モーリス君、信仰に厚い割には割り切ったところがあるのよね。こういう時は助かるけど。
「そう・・・そうしましょうか・・・ところで、私がウエアを借りるはずのノリス君はどこかしら。」
改めて周りを見回すと、ヒューさんに捕まえられてワタワタするノリス君を見つけた。
「離すんだ!何するんだ!」
小柄なノリス君は簡単には脱出できなさそうだけど、捕まえているヒューさんもおろおろしている。犬に取り押さえられたハムスターみたい。
さっきはほっぺたに気を取られていたけど、白と青のインナーにピンクの前の開いた上着、ピンクと白の縦縞の半ズボンと白のタイツを着ていて、何だか前世の遊園地でガイドをしていそうな感じがする。これが本人じゃなくて王子の趣味だとしたら少し王子にがっかり。
「どうしたんだモードリン!」
男爵がヒューさんの元に駆け寄って、私たちが後に続く。
「いえ、ノリス少年がこっそりと場を離れようとしたので、お止めしていたところです。」
お止めしていた、というよりは取り押さえている感じだけど、とりあえずノリス君はかわいそうな感じにもがいている。
「どうしたのノリス君?」
ノリス君はつねりたくなる赤いほっぺたをパンパンに膨らました。
「ふん!お前なんかに僕のウェア貸してやらないんだ!」
幼稚園児みたいな発言にみんなびっくりする。
「私はともかく、王子様直々のお願いを断ったら、ノリス君も大変なことになると思うよ。」
「うう・・・うわああああん」
15歳の少年とは思えない声で泣き始めるノリス君。
アンソニーといい、この宮殿の15歳は軟弱すぎると思う。情緒がまともに育たなかったのかしら。
「どうしたのノリス君、悲しいわけを話して、ね。」
「だって・・・だって・・・新入り君は僕より美少年なんだ・・・モーリス君と違って性格もまともそうなんだ・・・ぐずっ・・・王子様が楽しみだって・・・僕はもう捨てられちゃうんだ・・・」
拝啓王子様、あなたに誑かされた子羊がここに一人おります。
「大丈夫、私は王子様に興味がないから・・・そういう意味では特にね。だから私がノリス君の代わりになることはないよ?大丈夫。」
王子様の寵愛が移るのを心配するのは当然なのかも。王子の従者は見た目採用なんだし、大奥とかハーレムに近い女の戦いが繰り広げられているんだと思う。男同士だけど。
「・・・ほ・・・ほんとに?・・・ずびっ・・・僕・・・一番でいられる?・・・」
ヒューさんの押さえつけられたままのノリス君が、顔を赤くして涙目の上目遣いで聞いてくる。この宮殿って何でこんな乙女男子ばっかりなのかしら。スザンナとマダム・ポーリーヌの方が性格的には平均より男らしいと思う。
「うん、大丈夫。私もノリス君の立場が守られるように頑張るよ。」
私の安全のためにもね。
ノリス君はまだ安心できないみたいで、泣くのをやめてくれない。
「じゃあ・・・ぐすん・・・辞任して・・・」
ん?
何だか天使が言ってはいけないセリフが聞こえた気がした。
*ルイーズは当初ここで女性的な話し方をしていましたが、不自然すぎるとの指摘をうけて改定しました。これ以降の章でルイーズが自分の話し方について言い訳を展開する部分も縮小ないし削除してあります。