LXXXIV 策士ウィンスロー男爵
ブランドンが「これは女の唇だ」と言い放ったあと、場は凍りついたように静かになった。
「女?」
気のせいか王子の眉がひくついた気がする。
初対面から絶体絶命なんだけど、どうしてくれるの男爵?
「殿下、これは全くの言いがかりです。そもそも唇は男女差が出づらい体の部位です。」
ブランドンを無視することに決めたらしいモーリス君が王子に向けて私を庇う。
「ええ、私は男です。どうぞ誤解のありませぬよう。」
ちょっと後手に回っちゃったけど、私もモーリス君と歩調を合わせる。
「王子殿下、ルイスの素性は同郷の俺が保証します。」
静かにしていたトマスも助け舟を出してくれる。
王子は何も答えない。真面目な顔をしている。
王子を振り向きもしないブランドンは、余裕の表情を浮かべたまま。
「セントジョン、君は先週何人の女と口づけを交わした?」
いやらしい笑いかたをしたブランドンが、モーリス君を嘲るように言い放つ。急に何を言い始めるの、この人は?
「殿下、上に立つ人間は部下の風紀を守る責任がございます。どうぞ低俗な話題はたしなめられますよう。」
モーリス君、バカは相手にしない戦略みたいだけど、大丈夫かしら。王子様は反応しない。
「ゼロだろう、セントジョン。私は三人の女と熱い口づけを交わしたんだ。お前と違って、女の唇を隅々まで把握している。」
あなたの戦績なんて誰も聞いてないけどね。それよりも、王子様はなんでこの変態の暴走を止めないのかしら。女嫌いにとっては最悪の発言だと思うけど。
「なんなら確かめて見せよう。リディントン、目をつむるんだ。」
一歩前に出るブランドン。モーリス君が私を守るように両手を広げるけど、勝ち目はなさそう。
「なぜですか。」
一応聞いてみる。
「口づけをするに決まっているだろう。」
「ちょっと!ダメに決まっているでしょう。なんで当然みたいに言うのよ、バカ!」
いけない、男っぽい喋り方をしないといけないのに。
「ふざけるのはそこまでにしなさい、馬丁の息子の分際で!」
モーリス君は毛を逆立てた猫みたいに威嚇しているけど、相手は熊だからだいぶ分が悪い。
「モーリス、門地に基づいて人を判断してはならない。」
王子様がモーリス君をたしなめる。正論だけど、それ以前に突っ込むところ色々あったよね?
ブランドンは見るからに調子に乗っている。
「恥ずかしがらずともいいじゃないか。口ではそう言いつつも、内心では私の唇から目が離せないのだろう。」
うわあ、このセクハラ男、公金横領の罪でもなすりつけて早く牢屋送りにしたい。
そう、私は弁護士の娘。私なりの戦い方がある。
「お言葉ですが、チャールズ・ブランドン、あなたは男の唇を体験したことはあるのですか。」
目の前の女ったらしはせせら笑った。せっかく優美な髪と甘いマスクをしているのに、言動がすごくもったいない。
「まさか、あるはずがないだろう。君の唇が女のものだと言う絶対の自信があるからこそ、口づけをしてあげてもいいと言っている。」
王子に信頼されているいる様子から、男性経験があるのかもとも思ったけど、どうやら女性専用のバカ見たい。
「女の唇しか経験していないのに、なぜ男の唇かどうか違いがわかると言うのです?自分の唇には口づけできないでしょう。」
ブランドンは急にむすっとした表情を浮かべた。
「なんだいその屁理屈は。理屈っぽい女はモテないぞ。」
あなたの理屈よりよっぽどましだと思うけど。そしてあなたにモテるくらいだったら修道院に行きます。
「女の唇しか経験のないあなたに、私の唇が男の唇かどうか判断する材料がないのです。つまり、あなたがどれだけ唇のプロを自称したとしても、あなたの判定は所詮ランダムな憶測に過ぎません。」
ブランドンは呆気に取られたように口をパクパクさせた。黙っていればこの人はそこそこ頭がよく見えるのに、おつむが残念極まりないわ。
「殿下、ルイスは家業を手伝っていたので、法廷での弁論の心得があります。」
トマスがフォローに入る。法廷で活躍するのはほぼ男性だから、男だってアピールにもなっている。議論的にはやや優勢かしら。
王子は何も答えない。
ここに来て、今まで黙っていた男爵が前に出た。
「皆さん、百聞は一見にしかずと申します。ルイス、体を西に向けてくれないか。光の具合で唇の様子も変わってくるしね。」
男爵が私に笑いかける。何を企んでいるのかしら。
「西ですか?」
王子達の区画が宮殿の東側だったから、昨日窓から見た景色と反対側が西側になる。南側にいる王子様に対して九十度の角度を向く。
「さあ、この体の輪郭を見てごらん、ブランドン。」
自信満々に言い放つ男爵。
「おお、これはっ・・・私が間違っていたと言うのか・・・」
手で額を抑えて、悔しそうに顔を歪めるブランドンが横目に入る。
男爵のバカあああああああああああああああああああ!




