LXXV ニーヴェット夫人ムリエル・ハワード
射撃場に向かうと、懐かしいトマスの姿があった。銀の縦縞の入った黒服姿で、剣を斜めに振るって前に進み、剣を持ち替えて反対に斜めに振るって前に進む、という動作を繰り返している。遠くから見るとおもちゃの兵隊みたいで少し可愛い。
前に会ったときは肩まで髪があったけど、思い切って切ったみたい。前髪をブローして後ろ髪を刈り上げたような髪型。私と同じような栗色の髪色だけど、前世の古い少女漫画に出てきそうね。
ニーヴェット家の男性に共通するちょっと広い額と細めの顎が気になるけど、改めて見ても目鼻立ちはかなりハンサムな方ね。もちろんヘンリー王子の従者だから、見た目がいいのは当たり前かもしれない。
私も懐かしくなって駆け寄りそうになったけど、お風呂に入ったばかりだから、汗の匂いが移らないくらいの距離で止まる。
「おひさしぶりね、トマス。」
トマスは驚いた表情で振り返った。
「その声はレミントン!」
一応レディとしてのお辞儀をする。お父様のクライアントだしね。
せっかく適度な距離にいたのに、トマスは剣を置いてぐいぐい側まで近づいてきた。でもそんなに嫌な匂いはしなくて、朝だからか爽やかな感じがする。
「どうしてここにいるんだ?兄貴がノリッジでのお前の裁判に、証人として呼び出されていたんだぞ。」
当惑顔のトマス。どうやら私の魔女裁判、エドマンド・ジュニアにも迷惑をかけちゃったみたい。
「ごめんなさいね。でも裁判が急に王都に変更になって、昨日付で無罪になったの。」
「まあレミントンが黒を白と言えばみんな白だと思うかもな。」
「ちょっと、白だってば。」
この気の置けない感じは本当に久しぶり。トマスは淡白な感じなので、私が疑惑の渦中にあってもあんまり態度を変えないと思う。
「それはそれとして、1年半ぶりくらいか、レミントン。綺麗になったんじゃないか。」
知り合いににこやかにお世辞を言われると、なんだか気恥ずかしい。
「ありがとう。お風呂に入ったばかりだから、割増に見えているかもしれないわね。前も言ったけど、トマスも訓練の後はお風呂に入る習慣をつけると、お嫁さんも喜ぶと思うわ。」
トマスはむっとした顔をした。
「せっかく褒めてやったのに、素直でないところは成長してないな。そして体格もお母上ほどには成長しなかったと。」
「まだ分からないでしょ!」
「そればかりはお前が黒を白と言っても白にはならないな。」
「ちょっと!」
仕返しをされちゃったけど、トマスは軽口にも悪意のない感じが伝わってきて嫌な気はしない。二人で軽く笑い合う。
「結婚式にでられずにごめんなさいね。お嫁さんはお元気?」
トマスの表情が柔らかくなった。
「ああ、軍人の娘だけあって貴族にしてはやたら活発なんだ。お前が出られたら歓待して、嫁とリアルテニスの試合でもさせようと思っていたのにな。」
おかしそうに笑っているけど、それは歓待じゃなくて動員って言うのよ?
「こら!人を見せ物にしないでよね!見せ物はあなたの馬上槍試合で十分でしょう。」
「見たかったか?」
「そりゃあね。出たかったわ、あなたの結婚式。」
トマスやエドマンド・ジュニアを筆頭にニーヴェット家の人々はあんまり饒舌でもないし楽器も弾かないけど、一緒にいて楽しい人たち。結婚式は盛り上がったと思う。サー・エドマンドが亡くなった直後に知り合った私が言うのだから間違いない。
ピーター少年め。あの子が鞭で叩かれたくらいで騒ぐから私はトマスの門出を祝福できなかったじゃない。
「今度実家に帰ったときにでもノリッジに寄って嫁を紹介する。」
そういえば、トマスの奥様はサリー伯爵の娘だった。それで男爵はトマスが私の敵だと思っていたみたいだけど。どう聞けばいいかしら。
「そのお嫁さんについてなんだけど、サリー伯爵の娘さんよね。そうすると王族の血を引いているのかしら。」
トマスはおかしそうに笑う。
「ははっ。いや、ムリエルは伯爵がアン様と再婚される前の、なくなった夫人の子供だ。ニーヴェット家がこの国を支配する日はまだ遠そうだな。」
よかった。トマスは宮廷のいざこざに巻き込まれずにいてほしい。
「ニーヴェット家が天下をとったら、レミントン家を重用してね。」
「レミントン一族はみんな影の支配者になれそうで怖いな。」
「あら、その方がニーヴェットとしては楽じゃない?実務は私たちがやるから、みんなの前で華やかに馬上槍試合をしてくれるだけでいいのよ?」
二人で笑う。
この感じはほんとに久しぶり。一昨日から貴族と庶民に振り回され続けていたから、私と同じような境遇のトマスは話していて楽かも。
トマスが同僚にいるってことは、アッパーミドルクラスの視点で宮廷ライフを案内してもらえるかもしれない。あまり饒舌な人ではないけど、おしゃべりが楽しみになってきた。




