LXXII 騎士ジェラルド・フィッツジェラルド
ヘンリー王子がいないせいか、東棟三階の廊下は最低限の火しか灯されていなかった。どの部屋も代わり映えのない重厚な扉が閉ざされていて、見分けがつかない。真っ直ぐな廊下なのに迷いそうだ。どの部屋がさっきの真上だったのだろうか。
王子や王太子の部屋は中で何が起きているかか分かるように壁が薄くなっているのだが、この従者の区画は壁が厚いようで、中の音が聞こえてこない。下の階にいたほうがアンソニーの声がよく聞こえたかもしれない。
物音に注意しながら、壁沿いをゆっくり歩く。三部屋目くらいまで進んだとき、本当に微かだがわずかに聞き取れる音がした。
「・・・うはあっ・・・すごいっ・・・もう・・・おかしくなるうっ・・・」
アンソニーだ。間違いない。
魔女に操られておかしくなってしまったアンソニーだが、これ以上魂をやられては困る。本人が「おかしい」と感じる感覚がまだ残っているうちに助けなければ。ドアは蹴破るには厚すぎるようだが、なんとか入り込む方法はないだろうか。
もう一度耳を澄ます。
「・・・いいとこなのにっ・・・やめるなっ・・・やめないでっ・・・」
ああ、アンソニー。
おかしくなると言っておきながら求めてしまうとは、魔女に感覚を倒錯させられているに違いない。魂をやられてしまっているのは知っていたが、五感も操られているようだ。
壁が厚いせいかさっきから魔女の声は聞こえてこない。考えてみればルイーズ・レミントンもルクレツィア・ランゴバルドも逮捕するときにほとんど喋らなかったから、声の印象が薄い。聞こえてきてもどちらか分からないだろう。
ランゴバルドに至っては顔も分からないし、レミントンの顔は印象に残らなかったせいかうまく思い出せない。なんて失態だ。
心の中で地団駄を踏んでいると、さっきより大きな声が聞こえた。
「・・・あうううっ・・・ひいっ・・・足がこわれるっ・・・」
魔女はアンソニーの足を壊す気なのか。
背格好が平凡なあいつの武器は俊敏さだ。足を壊したらアンソニーに騎士としての将来はない。だが、すでに心も体も奪っているのに、アンソニーの足を壊すメリットとはなんだろうか。
「・・・ひぎゃあっ・・・まほう強すぎっ・・・」
どうやら魔女は魔法の制御に失敗しているようだ。
早く助けなければ。そしてこの危険な魔女を葬り去らなければ。
剣を鞘から抜いて、正面に構える。
「ふひゃっ・・・痛くないけどっ・・・ダメだっ・・・こわれるっ・・・しびれるっ・・・からだが壊れるっ・・・」
アンソニーの悲鳴が悲惨になってきている。一刻の猶予も許されない。
ドアの隙間に剣先を合わせる。この宮殿は新しいから金具も新品だろうが、思いっきり斬りつければなんとか壊れるはずだ。
剣を振りかぶる。
そのときだった。
「・・・もっと魔法をかけてください魔女様っ・・・」
なんだって?
聞こえてきた声に力が抜けてしまった。
アンソニーの意識が操られているのは知っている。しかしこれから助けようとしているのに、こんなにはっきり魔女に従われるのはやる気が削がれる。下手したら魔女を斬ろうとする俺の前に立ちはだかりかねない。
そもそも「魔法をかけてください魔女様」なんてアンソニーが言うセリフじゃない。俺の知っているアンソニーじゃなくなっている。
魔女め、よくもアンソニーの魂を奪ってくれたな・・・
変な感覚だ。ふつふつと煮えたぎる怒りと、腕に力が入らないやるせなさが同居している。
「・・・んあっ・・・そこらめっ・・・あうんっ・・・」
だんだん聞こえてくるアンソニーの声が卑猥な響きを帯び始めた。どんな魔法をかけられているのか。
考えてみれば、ルクレツィア・ランゴバルドはともかくルイーズ・レミントンの魔法は地肌にしか効かないはずだ。だからこそ俺たちはつなぎのない黒装束を着て行ったのだ。
となると、アンソニーは多分身ぐるみ剥がされているに違いない。
「・・・はうっ・・・いひゃっ・・・やめれっ・・・」
さっきモーリスが言っていたことを思い出す。嫌がっているアンソニーを助けてやりたいが、素っ裸のまま魔女に指で突かれて悶えているところを友人に見られたら、俺なら死ねる。
「・・・おひょっ・・・もうむりっ・・・」
もし、考えたくないが、魔女に返り討ちにあったら、俺もこんな声を出して全裸でのたうち回るのだろうか。背筋に寒気を覚える。
「・・・だからあんっ・・・らめっれいってっ・・・んあっ・・・」
アンソニーの声を聞くのが耐え難くなってきた。明日どんな顔をして向き合えばいいのだろう。
魔女に触られるだけでこうなってしまうのだ。相手の根拠地で勝負するのは明らかに不利だ。
ここは撤退するしかない。アンソニーの名誉のためにも、何も聞かなかったことにするのだ。
「・・・むりいっ・・・ひうっ・・・もうむりっ・・・たすけええっ・・・」
済まないアンソニー。前回アンソニーを見捨てて逃げ出したのをどれほど悔やんだか分からないが、壁の向こうで繰り広げられている光景はきっと見るに耐えないし、魔女排除に失敗してパーティーに加わる羽目になったらと思うと身の毛がよだつ。
これはお前の名誉のためだ、アンソニー。
「・・・ぶぐっ・・・もうらめえええっ・・・」
微かに聞こえるアンソニーの断末魔から、耳を塞ぐようにして、俺は階下に向かって走った。
許せアンソニー。魔女のいない環境でゆっくり治していく方がいいに決まっている。本物かどうか知らないが、聖女には力になってもらう。
しかし魔女がこの宮殿にいるとは思わなかった。どちらの魔女か分からないが、居場所を特定できたのは大きな収穫のはずだ。アンソニーは今回救出できなかったとはいえ、もともと症状は重かった。今回の魔法で悪化したかもしれないが、気長に治していくほかない。
俺は誇り高い騎士だ。あられもない格好にされそうな夜襲よりも、できれば白昼で正々堂々魔女を倒したい。
階段を慌てて数段跳びで降りたせいで、少しバランスを崩しかけたが、壁にぶつかって音をたてただけで済んだ。
敵前逃亡は騎士として許されないが、今回俺は敵前に現れなかったから問題ないはずだ。
注) 当初「東棟二階」となっていましたが、「三階」の間違いでした。訂正してあります。




