V フクロウ亭主人バーバラ・スローター
ブリーの街はノリッジよりもずっとこじんまりとしていた。誰かの家に宿泊するのかと思っていたけど、ウィンスロー男爵は割と活気のある旅館みたいな宿をとっていて、一階の定食屋で夕食になった。青くなったフランシス君は部屋の隅にあるベンチでじっとしている。御者のタイラーさんも見かけないので、食卓を囲むのは私と男爵だけになる。
きっぷの良い感じのおばさんが注文を取りに来た。
「フクロウ亭にようこそ。ご注文は何にしますか。」
「私はキドニーパイをもらおうかな。ルイスは何がいい。」
「私は子羊のシチュー。」
男爵はちょっと驚いたようだった。
「お腹は空いていないのかい。そんな時間のかかるものを頼んで。」
「そういう気分だったの。それに王宮で下働きを始めたら、簡単には好きなものを注文できないんでしょう。今日ぐらい好きに選ばせて。」
「やれやれ、お手上げだ。君は侍女になっても彼女たちの間にすぐ馴染めただろうね。」
彼女たち、と言うときに男爵に疲れが滲んでいた気がした。侍従として侍女達との折衝が大変なのかもしれない。
しばらくすると、同じおばさんがパイとシチューを前後して出してきた。多分作り置きしてあったのを温めたんだと思う。一口食べてみる。
「あ、美味しい。」
やっぱり煮込み料理は日が経つとコクが出る。楽しみにしていた羊肉も柔らかくなってるし、なかなか満足かな。
「本当かい、こういうところのシチューは干し肉を使ってるんじゃないのかな。」
「干し肉だってちゃんと料理すれば美味しいのよ。男爵こそキドニーパイなんて材料の鮮度が悪かったら胃に悪いわ。こういう場所で危ない橋を渡るのね。」
男爵の前に置かれた大ボリュームのパイを見る。こっちの世界だと内臓系の料理はちゃんとした肉が手に入らない庶民が食べるものだったから、男爵が注文したのを見て驚いた。
「ちょっとお客さん。」
さっきの女将さんがでーんと私たちの前に塞がった。
「お二人とも身なりの良い感じだから、きっと日頃いいものを食べていらっしゃるんでしょうけど、それでも私どもの店の評判を貶めるようなことは言わないでくださいな。シチューの羊もパイの臓物も新鮮な材料で作ったものをお出ししているんですよ。」
私も男爵も裁判所がら出てきたままの地味な衣装だったけど、やはり生地がいいと身分の高さがわかるのかな。それでも怯まずに女主人は堂々としていた。
「それは失礼。マダム、お名前をうかがってもいいかな。」
「バーバラ・スローターです。」
「バーバラさん、私は普段こういった旅籠屋を使わないもので、周りの目を気にすることに慣れていなかった。根拠もなく疑ってしまって申し訳なく思っているよ。それにしてもこのパイは想像していたよりもずっと美味しいね。よければレシピを教えてくれないかな。婚約者に教えてあげたくてね。」
男爵は自然なように、後半だけ声のボリュームを上げていた。
「残念ながらレシピは秘密です。ご夫婦かと思いましたら、まだご婚約の段階だったのですね。貴族の奥方が料理をなさるなんて感心です。頑張ってくださいね。」
「え、ええ。」
どうやら私を婚約者と間違えたまま、バーバラさんは上機嫌に戻っていった。男爵が世渡り上手だというより、バーバラさんが単純だったということだと思うけど。
「びっくりしたね。ただ、確かに私たちも非礼だった。」
「そうですね。謝るタイミングを逃してしまいました。」
そう、レミントン家でも訪れた知人の家でも、使用人は言い返してくることがないから、こういう自分のサービスにプライドを持った人に会ったことはなかった。バーバラさんのプロとしての誇りはむしろ新鮮に感じる。
王宮勤めが終わったらレストランを開く、というのも面白いかもしれない。レミントン家では料理なんてしてないけど、前世で一人暮らししていた頃のレシピをうっすら覚えているし、私がコックに頼んでアレンジしてもらった料理は家族にも好評だった。
でもこのラムシチューは作れる気がしない。レシピを教えてくれたらよかったのに。