CCCLXXIX 伝令ゴードン・ロアノーク
ヘンリー王子はいつも通り、シャキッとした姿勢でどっしりと座っていたけど、コンプトン先輩を見る目には少しだけ不安の色が見えた気がした。薄着だから肌寒そうに見えるせいかもしれないけど。
「コンプトン、大丈夫か?」
「・・・ふぇ・・・」
だらんとオットマンに伸びているコンプトン先輩は、なんだか目が回ってしまったみたいになっていて、大好きな王子様の掛け声に応えられていなかった。
「リディントン、コンプトンは無事なのか。壊れてしまったように見えるが。」
「いたって健康体ですよ、ちょっと痛そうにしていましたけど、体には問題ないはずです。」
コンプトン先輩は肩と首にちょっと問題があったから、私もけっこう痛いツボを押しちゃったけど、もともとが健康な体だからそんなにあとを引かないと思う。
首はあぶないから結構気を使ったけど、せっかくコンプトン先輩がおとなしくなったから、もう少し治してあげようと思う。
「それでは、もうちょっと上のあたりを」
「リディントン、コンプトンは限界のようだ。ここでやめておこう。」
肩をいじろうとした私を王子が静止した。せっかくじたばたしていたコンプトン先輩がおとなしくなったのに。なぜか皆さん、マッサージは被験者がぐったりしたらやめるという内規を作っちゃっているのよね。
「意識は朦朧としているみたいですけど、体はまだ大丈夫そうで・・・そうですね、やめたほうがいいかと思います。」
私は王子の無言の圧力を感じて手を止めた。納得はいかないけど。
「リディントン、やはり私は昨日のように、上から腰を突いてもらえないか。」
ヘンリー王子はドシッと構えているけど、コンプトン先輩が痛がるのを見て肩のマッサージが怖くなったのかもしれない。
「連日は体に良くないと思いますけど・・・」
「大丈夫だ、その程度でやられる軟弱な体はしていない。」
確かにヘンリー王子は剛健な体をしているけど、連日同じ箇所のマッサージは健康には良くないのよね。
「存じております。しかし体に良い影響はありませんので・・・」
「よいかリディントン、鉄は叩いて強くなるが、古代、人が鉄を発見したときにはこれに気づかず、慎重に扱っていた。その結果、丁重に作られた鉄剣は刃こぼれもしやすく耐久性も低かった。しかし」
「・・・承りました、殿下。お望み通り叩いて差し上げます。ベッドの端にうつ伏せになってもらえますか。」
私は殿下の説話を短めに遮った。今回はいつもよりちょっとだけ面白そうだったけど。
「これからリディントンが私の上に乗っかるのだから、ベッドの中央でもよいのではないか?」
「よろしければベッドの端でお願いします。恐縮ですが、体が安定しますので。」
現世のベッドはスプリングを使っていないから、すこし中央がおちくぼんでしまうことが多くて、特に王子のキングベッドみたいな特大サイズならなおさら。
「リディントンが言うのだから信用しよう。この体勢で良いか?」
「はい、大丈夫ですよ。」
王子の腰のマッサージは連日になるから、準備には問題なかった。私は王子の膝の両脇に膝をつくようにして、王子の腰に手を当てた。
「ではいきますね。」
私は王子の着ている薄手のシャツを引き伸ばすと、王子の腰のツボをゆっくり押していった。
「鉄は鉄を研ぐ、そのように人はその友の顔を・・・くっ、・・・そこを・・・押し込まれてはっ・・・フッ・・・早くも、快感がっ、・・・」
「殿下、腰を動かしすぎないでくださいね。もうちょっと力を抜いてください。」
王子はまだ鉄にちなんだ名言を唱えようとしていたけど、いつもより早く諦めたみたいだった。ベッドにしがみつくような感じでなにかに耐えるように力んでいる。
筋肉質な人でも、体にそこそこ弾力性のある人は多い。王子の体はブランドンと違ってゴツゴツしていないから一見しなやかに見えるけど、案外硬いからマッサージをするのが結構大変。
「・・・つっ・・・だめだっ・・・快楽に・・・ハッ、ハッ、・・・く・・・持っていかれるっ・・・」
「別に打ち克つ必要ないと思いますけど。」
王子は気持ちよさそうではあるけど、ちょっと悩ましげな表情をしていた。何に葛藤しているのか全然わからない。
「・・・くっ・・・腰から下がっ・・・ああっ、リディントンの・・・言いなりに・・・」
「言いなりって言われましても・・・」
言いなりって男爵が企んでいる計画に沿っている気はするけど、別にこの状態で言いなりになっても契約にサインできるわけでもないし・・・
サイン・・・
宮殿の人たちはなぜかマッサージに耐性が無くて、くまさんやアンソニーみたいにマッサージと交換に条件を飲んでくれる人も多かった。
マッサージで忘我状態になったヘンリー王子をスザンナに襲わせようとしている男爵みたいで、あんまり気が進まないけど。
いのちは大事。
「次の準備をしますので、少し待ってもらえますか。」
私はいったん手を止めた。
「リディントン、やめてしまうのか?」
「やめませんよ、ちょっと待っていてくださいね。」
私は王子の体から降りて、寄木細工を使った豪華なライティングテーブルに向かった。
「殿下、羽根ペンをお借りできますか。」
「羽を使うのか?構わないが。」
「ルイス、あれは禁じ手だ!」
男爵はアンソニーに羽でお仕置きをしたときを覚えていたみたいで、少し慌てていたけど、今回は目的が違うの。
私は羽根ペンをインク壺に浸した。前世のボールペンみたいなのがあったら便利なのに、羽根ペンはインクを吸わせるのに時間がかかるのよね。
私は、今朝ドレス姿で王子の前に出たときに用意した、辞表を懐から取り出した。
「リディントン、しばらくかかるのか・・・」
王子がおねだりをする子供みたいな目で私を見てきた。
「大丈夫ですよ、殿下。今行きますね。」
本当はもっとインクを吸わせたかったけど、“Henry”って書くだけだから多分足りると思う。
「ルイス、早まってはいけない、殿下が壊れてしまうよ。」
男爵はまだ私の羽根ペンの羽の方を使うと思っているみたいだけど、どうせなら勘違いしてもらった方が妨害されなくていいかもしれない。
私は王子の体の右側に座って、男爵に見えない位置に辞表を置く。
「もちろん、羽を使えばこういうこともできるのですが。」
私は羽をゾワッと王子の右耳に添わせた。
「アァッ!!!!!!」
王子は短く呻くともがくように体を動かした。耳かきが大好きなだけあって、予想以上のオーバーリアクション。
「ルイス!!」
「殿下、大丈夫ですか。」
「・・・こ、これは・・・壊れる・・・危険・・・だ・・・」
壊れはしないと思うけど、震える王子をなだめるように、私は王子の腰に手を当てた。
「わかりました、ではしばし羽根ペンは置きまして、先ほどのようにやっていきますね。」
「・・・ああ、・・・頼む・・・」
王子が息を整えるのに合わせて、私はマッサージをしていく。
弱めに。
「・・・ん・・・リディントン・・・もう少し・・・激しくしても・・・」
王子は物足りなくなったみたいだった。もともと王子のマッサージは力が要るから、今みたいに力を入れないとくすぐったいだけかもしれない。
「殿下がさっきのように壊れてしまうといけませんから。」
「それはそうだが・・・焦れったい・・・んっ・・・鉄は・・・熱いうちに・・・」
王子の今日の鉄シリーズへのこだわりはどこから来ているのかしら。今は関係ないけど。
私は片手で弱いマッサージを続けながら、もう片方の手で王子の枕元に辞表と羽根ペンを持っていった。
「こちらの書類にサインしていただけたら、もう少し強めに致しましょう。」
「ルイス!?」
男爵が戸惑った声を上げた。さっさと書いてもらわないと妨害されるけど、男爵は巨大なベッドの反対側にいるから、五文字くらい書ける余裕はあるはず。
「・・・リディントン・・・んっ・・・王族の・・・サインは・・・重い・・・ふっ・・・精査せねば・・・んっ・・・」
ヘンリー王子は頭がまだシャープみたいだった。
しょうがないから、昨日王子が気に入っていたツボに指をいれていく。
「・・・アガっ!!・・・そ、そこはっ・・・善い場所に・・・あたって・・・くうっ・・・」
「殿下、サインしたらもっとすごいことがありますよ。」
王子は訴えるような目で私を見ようとしたみたいだけど、よほど気持ちがよかったのか目に迫力がなかった。
「・・・だが・・・ああっ!・・・快感が・・・暴力的にっ・・・」
「それは良かったです。さあサインしましょう。」
ちょっと罪悪感あるけど、王子には今朝からさんざん辞任を断られているし。
いのちは大事。
「・・・王族・・・たるものっ・・・アグッ・・・快楽に・・・負けなっ・・・うくっ・・・ハッ・・・ああっ・・・」
予想より王子が粘っていて、ペン先が乾かないか心配になってきた。
「・・・くふっ・・・耐えてみせ・・・アアッ!・・・快感がっ・・・せり上がって・・・ハアッ!・・・」
「サインしてくれないとやめちゃいますよ?」
あれ、なんで男爵は邪魔してこないのかしら。
「・・・ううっ・・・そんな・・・駄目だっ・・・あっ、あ、頭が・・・クラクラす・・・カフッ・・・」
王子は歯を食いしばって耐えるようにしているけど、よく見るともう目が回ったみたいになっていた。
「・・・おおっ!?・・・ああ・・・もう何も・・・考えられな・・・」
「そうです、何も考えずにサインしましょう。」
良い子は真似しちゃいけません。
「・・・ああっ・・・だがっ・・・快感に・・・負けるっ・・・わけには・・・んくっ・・・」
「何も考えられない時点で負けじゃないですか?」
「うっ・・・神よ・・・私にっ・・・アッ、アアアッ!!・・・ま、参った、・・・リディントン・・・もう・・・目が霞んで・・・駄目だ・・・負けた・・・ああっ・・・」
なんの勝負か知らないけど私は勝ったらしい。神は悶えている王子に微笑まなかったそうで。
「じゃあ、潔くサインしてくださいね。ほら、ペンをもってください。」
私は小刻みに震える王子の手のひらを開いてペンを持ってもらうと、羊皮紙の位置まで誘導した。
「・・・あっ・・・快感で・・・め、眼の前が・・・真っ白にっ・・・」
「大丈夫ですよ、ペン先がはじめの位置にありますから、いつもどおりサインしてください。」
私はゆっくりヘンリー王子のペン先が滑るのを見た。ヘンリー王子のサインだと、Hは少し装飾が多めで複雑なのよね。偽造防止だろうし、実際に真似するのは難しそうだけど。
あれ、私の辞表、こんなにいい羊皮紙使ってなかった気がする・・・
タイトルを見ると、私じゃない字だった。
『ヘンリー第二王子の婚姻、衛生・肉体・健康管理、及び人事その他に関する全権委任状』・・・・
「男爵、いつ差し替えたの!!??バカバカッ!!バカッ!!」
私は起き上がると、男爵が手に持っていた私の辞表をひったくった。全権委任状をベッドの反対側に投げつける。
「ルイス、王室の文書を乱雑に扱ってはいけないよ!」
「殿下、こっちです。最初からサインしてください!」
王子は腕が長いから、男爵から見て遠い位置に私の辞表を置いた。大丈夫、なにか委任されても辞表が受理されれば無効になるんだから。
「・・・リディントン・・・サイン・・・した・・・続き・・・約束・・・」
王子はまともにしゃべられなくなっていたけど、王子の羽根ペンを誘導しながらだと、私の体のサイズ的に腰のマッサージができない。
「サインしてください、最初のHから!そしたら、こんなふうに!」
私は王子の右手から手を話して、再び腰のツボを押しにいった。
「・・・おおっ!!・・・か、からだが・・・とけるっ・・・」
「そうです、サインですよ。」
「・・・か、神よ・・・私を・・・許し・・・ああっ・・・頭が・・・まわらな・・・」
王子は華麗な“H”を書き終えた。
「大丈夫です、神様もきっと許してくださいます。」
私は無責任に神様を代弁しながら、辞表をずらそうとする男爵から遠い位置まで王子の腕を動かした。ペン先はかなりゆっくりだけど、男爵は王子の体に触れないようにしているから、妨害は成功しなくて”e“まで順調にいっている。
「・・・もう・・・耐えられ・・・全身が・・・ここちよ・・・あっ、ああっ!!・・・」
王子は“n”まで書き終わった。いつもよりみみずみたいになっているけど、筆跡鑑定にかければ一応分かるくらいには王子の字。
部屋の外から、かつかつと誰かが速歩きする音が聞こえてきた。
「大変です!」
ゴードンさんよく通る低温がドア越しに響いた。そういえば王子の部屋は壁が薄いのよね。
「ゴードンさんちょっと待って、いまいいところだから!!」
「・・・脳味噌が・・・心地よく・・・しびれ・・・うっ・・・」
“r”。あと少し!
「それどころじゃありません!」
「なにごとなの一体?」
王子はしびれたのか動きが止まってしまって、私は片手で“y”のはじめの位置まで王子の手を補佐した。
「反乱です!」
「そう、ただの反乱、・・・って反乱!?」
「アガっ!!!・・・」
びっくりした私は思わず王子のツボを強く押してしまった。
反乱ってことは、安全な場所まで逃げるのよね?それとも今いる宮殿が安全なの?
「アッ・・・ッ・・・」
急に強くツボを押されたヘンリー王子は、体をピンと張った糸みたいに伸ばしていた。
「すいません殿下、大丈夫ですか?・・・それより反乱ですよ、反乱!」
「・・・脳天から・・・つま先まで・・・雷が・・・あっ・・・」
ヘンリー王子はよくわからないことをいうと、ドサッとベッドの上に倒れた。もともと倒れていたけど、さっき体を伸ばしていたから力が抜けたみたい。
ということは・・・・・・
「殿下・・・まだ“y”が足りていません!起きて!お願いだから起きて!」
「・・・・・・スー・・・・・・」
ヘンリー王子はなんだか、冷えピタシートでひんやり熱を冷まされた少年ような顔をして、健やかに寝息を立て始めた。
「寝ちゃだめです!“y”書いて逃げましょう!反乱ですよ反乱!!」
「・・・・・・」
私はごきげんな王子の体をゆすりながらパニックになった。