CCCLII 論客ルイス・リディントン
私は闇雲に廊下を走っていましたが、すぐに後ろからリディントン様の声が追いついてきました。
「待って!待ってください、レディ・グレイ!」
待ったとしても、どのような顔をしてリディントン様に向き合えばよいのか、私にはわかりません。
いつまでも逃げ切れませんが、浮気をされてしまった婚約者として、どう振る舞えばいいのか見当もつかないのです。
「来ないでください、リディントン様!!私、今は弁明を聞きたくないのです!!どうとりつくおうと、リディントン様も男性ですから、やはりああいう胸の大きな方が」
「あんなのは脂肪の塊です!!」
私の悲痛な叫びが、リディントン様の鋭い声にかき消されました。
「・・・脂肪・・・というのは?」
私は思わず足を止めて振り返ります。
目に入る貴公子然としたリディントン様の美しい姿に、私は浮気の件を忘れて見入ってしまいました。美しい長い睫毛は、女性の私でさえ羨んでしまいます。
「よく聞いてください、レディ・グレイ。ステーキを食べるとき、白い脂身の部分は除けますよね。健康にも悪いし、おいしくもありません。スザンナの胸の成分は、あれと同じです。女性の健康な暮らしに不要な、ただの贅肉です。」
「はあ・・・」
人間の肉を食べるのは禁忌だと思いますが、リディントン様は何がおっしゃりたいのでしょうか。難しいお話で、浮気をごまかされてしまっては困ってしまいます。
「レディ・グレイ、はるか昔、私達の祖先が絶えず栄養不足に悩んでいたころ、脂身の多い女性というのは、男性にとってはその人に栄養が足りている証だったのです。それは生き残るため、たくさんの子孫を残すために大事だったのです。」
「・・・なるほど・・・お詳しいのですね。」
博識なリディントン様には、いつも感嘆の思いを抱いてしまいます。そういえば私は今まで、なぜ男性が胸の大きな女性を好むのか、深く考えたことはありませんでした。
「つまり、野生に近いような殺伐とした環境の中で、野蛮な男達は胸の大きい女性を、栄養を蓄えた相手として求めたのです。それはいわば、成金がけばけばしく華美な格好をして異性の気を引くのと同じ。つまり浅く、虚しいのです!」
「そ、そうなのですね!」
私を安心させてくれようとしているのだと思いますが、リディントン様のあまりの気迫に、本当にそう感じていらっしゃるのだろうと思わずにはいられません。
「レディ・グレイ、ひるがえって私達、文化的な暮らしをする人間は、そのように冬を越せるかどうかで女性を選んでいるわけではありません。私達は均整の取れた美にインスピレーションを得るのです。それはスザンナのような行き過ぎたいびつさの対局にあるものです。それが他の動物と人間の差、文明の証明なのです。」
「文明の、証明・・・」
リディントン様は美しい文語体で語られていますが、どうしても、私のささやかな体型を弁護していただいている感じはします。それでも、リディントン様の大きな目もまた、言葉ほどに雄弁に語っています。
リディントン様を、信じてみたい気持ちが湧いてきます。
「レディ・グレイ、古代の文明が発達していない地域の土偶は、よく女性の胸が誇張されているのです。一方で文明が発達していた地域の石像は、全体として均整のとれた女性の体をしているのです。スザンナのようなアンバランスは、動物的な本能は刺激しても、理性的・文化的に見れば決して美しくないのです。」
「文化的・・・そ、それではリディントン様は、あの胸の大きな女中より、私のほうが・・・」
リディントン様は大きくうなずき、その表情豊かな瞳でまっすぐに私を捉えました。
「もちろんです、レディ・グレイ!私はスザンナの歪な胸に惑わされるような、野蛮な人間ではありません。」
「リ、リディントン様・・・」
私の視界が、涙で少し揺らぎました。
これがもし私を宥めるための演技だったとしても、もうここまで立派に慰めていただいたなら、騙されても悔いなどありません。
とても優しくて、いつも真剣で、教養あふれるリディントン様・・・
「私、信じます、リディントンさまあ・・・」
私は思わず、リディントン様に近づいてしまいました。
「レディ・グレイ、足元を・・・危ない、エリー!」
「ひゃっ!」
何につまずいたのか、私は前かがみになってしまいましたが、私はリディントン様にもたれかかるようになって止まりました。
「すみません、リディントン様、私ったら、廊下ではしたないことに・・・」
口ではそういいながら、お風呂上がりのリディントン様の香りに、思わず体温が上がってしまいます。
「大丈夫です、エリー・・・あれっ、私より・・・えっと、レディ・グレイ・・・心配ないと思います、ほんとに・・・」
突然のことからか、リディントン様も動揺してしまっているようでした。なぜでしょう、とても愛おしく感じて、心が落ち着きます。
「よろしければ、エリーとお呼びください、リディントン様。そのほうが呼びやすいでしょう?」
「・・・さっきから何度か許可なくお呼びしまい、ごめんなさい。今更ですが、庶民の私が侯爵家のご令嬢を愛称でお呼びしても、よろしいのですか?」
少し恥ずかしそうなリディントン様。たとえこの方が女性慣れしているとしても、私への誠意を疑うことはもうしません。
私達が親しく呼び合うのをお兄さまが知ったら怒るでしょうか。でももう婚約者の身で、床をともにしているのですから・・・
「え、ええ。そのほうが、私も、その、嬉しいです。」
自分の頬が赤くなっているのがわかります。恥ずかしくなって、思わず体をもじもじと動かしてしまいました。
「わかりました。私もルイスでいいですよ、そう呼ぶのは男爵だけですが。エリー、見たところ腰はもう大丈夫そうですね?」
「あっ・・・」
腰に言及されて、私はまた体が熱くなるのを感じました。
リディントン様は、愛を交わすことを『腰の治療』とおっしゃいます。奥ゆかしくていらっしゃるので、きっと直接的な言葉を使うのがはばかられるのでしょう。
昨日のめくるめく夜が思い返されます。あのときは避難直後の土にまみれた格好で、後で思い出して取り乱してしまいましたが、今日はお互い清潔です。
でもまだ日が明るいのです・・・
「リディントン様、その、ええと、治療を、していただきたいかもしれません。でも、まだ明るくて・・・その、恥ずかしいので・・・」
たとえ『治療』という関節的な言葉だと使っていても、女性の私からねだるのはとても恥ずかしいです。
「治療ということは、やっと誤解が解けたのですね!よかった!でも、まだ治療が必要でしたか、連日は良くないのですが・・・」
私が『治療』の本当の意味を理解したことを、リディントン様は天使のように朗らかに喜んでくださいました。
連日は体が持たないとレディ・アンも言っていましたが、私は多産の家系、ドーセット侯爵家の出身です。激しかった昨日の疲れは驚くほどなくて、体はとても元気でした。リディントン様が気遣いながら愛していただいたおかげでしょう。
「無理はしておりません。でも、よろしければ、『治療』をしていただけたらと。ただ、リディントン様にはしたない女と思われたら・・・」
「そんなことは全く思いませんよ。治療を誤解されることも多いので、嬉しいです。お近づきになれた印に、ぜひルイスと呼んでください。そう呼ぶのは男爵だけなんですが。」
爽やかな笑顔を見せるリディントン様に、私の心臓が音を立てるのを感じました。
言葉の端々に感じられる豊富な女性経験は、もう気にしないことにします。だって今は、私だけのリディントン様なのですから。
ファーストネームを呼ばせてもらえる、唯一の女性として、誇りを持って隣を歩いていくのです。
「ル・・・ル・・・いえ、私はまだ、落ち着くまでリディントン様と呼ばせてください。」
意を決して口にしようとしてみたものの、思わず恥ずかしくなってしまいました。もっと恥ずかしいことをしているのに、踏み切れないのはなぜでしょうか。
「気まずければ好きに呼んでもらって大丈夫です、無理しないでください。」
「すみません、慣れたら、また・・・」
好きに呼ぶ・・・まだ婚約者ですが、私が『旦那様』って呼んでみても、よいのでしょうか。とても呼んでみたいです。
「顔が赤いですが、大丈夫ですか、エリー?」
もう私の顔が赤いことは、リディントン様に隠していられないようでした。
もはや、こうなったら恥を偲んでお願いするしかありません。
「その、女の私がこんなことを言うのは、憚られるのですけど・・・浴室のお隣に、その、『治療』にちょうどいい部屋があると伺っていて・・・」
レディ・アンに、お風呂場で盛り上がった恋人たちが使う部屋があると伺っていました。少し暗いとも聞いていましたが、お風呂場はかなり明るかったですし、大丈夫でしょうか。
でも、せっかくロマンティックな雰囲気になっている私達、このまま部屋に帰るのは寂しいのです。
「たしかにありそうですね。お風呂は治療のよい準備になりそうですから。あっ、先にお風呂に入りますか?血行が良くなって効果が」
「えっ、えっ、遠慮、しておきます!!」
リディントン様とお風呂・・・今はだめです!想像しただけで倒れてしまいます!
自然にお風呂に誘われてしまいました。私はもう心臓が持ちません。リディントン様、手だれすぎます!
でもいつか、リディントン様と・・・だめ、今は想像してはいけません!
「私、朝、入りました、から、さあ、参りま、しょう・・・」
「ええ、行きましょうか。」
私はすっかりぎこちなくなった手足を必死で動かしながら、リディントン様をレディ・アンが話していた部屋までご案内しました。




