CCCXLV 先輩騎士ハーバート男爵
私は少し足を曲げて、首から下がお湯に浸かるようにしてから、衝立の向こうの男爵達を糾弾した。
「『沐浴の儀』ってどういうこと!?部屋だけ確保してやったことにするって約束だったじゃない!!」
「ルイス、私達もそのつもりだったのだけどね。どうしても見学したいという方がいて、仕方なくこういう形になってしまった。申し訳なく思っているよ。できるだけすぐ終わらせるからね。」
珍しく男爵が謝ってきた。いくら衝立があっても、入浴用のワンピース一枚で桶に入っているところに踏み入られて、許す気にはならないけど。
見学って、まさかあの人・・・
「(ヘンリー王子殿下がまもなく到着します。)」
フランシス君の高い声が遠くで聞こえた。
いたの!?
「嘘でしょ、フランシス君までそっちにいるの?影が薄いからって影が見えないなんてことあるの!?」
「リヴィングストン、ウッドワードは部屋の外に控えている。しかし殿下の到着まで時間がない。儀式終盤から始めるとしよう。」
ハーバート男爵の影は、羊皮紙のようなものをスルッと広げた。こんな湿気のあるところで羊皮紙を持ってきたら駄目になってしまいそう。
「騎士の心得、其の八。汝、嘘偽りを述べることなかれ。汝の立てし誓いに忠実たれ。」
いきなり『其の八』って ヘンリー王子が到着したときにはほぼ終わっている、という設定みたいだけど・・・
「今まさに約束破っているじゃない!!説得力なさすぎ!というか性別を偽っている時点で私、騎士失格よね!ちょっとまって、とりあえずヘンリー王子が来るのを阻止して!」
私が叫んでいると、廊下で何か話し声がして、衝立の向こうのドアがギイと開く音がした。
「騎士の心得、其の九。汝、寛大たるべし。何人に対しても、喜びを持って施しを為すべし。」
「なんとか間に合ったか。よかった。終盤になってしまい残念だが・・・待て、この衝立は一体・・・」
ハーバート男爵の後に、聞き慣れたテノールの声が聞こえた。
衝立の向こうに威風堂々とした大きな影が現れる。
「でっ、殿下、ちょっと待って!!」
私は思わず上ずった声を出した。もともと声は低くないけど、これでも男だと信じているヘンリー王子は一体どういう感性をしているのかしら。
「殿下、お忙しい中ルイスの晴れ舞台にご臨席いただき、どうもありがとうございます。」
男爵はヘンリー王子を歓待していた。私の性別がバレたら一番困るのは男爵のはずだけど、危機感はなさそう。
「無理を言ってすまない、ウィンスロー。代官との会談を途中で切り上げなければならなかったが、私のためにハーバートにやり直しを頼むのは負担だっただろう。それよりこの衝立のせいでリディントンの姿がよく見えないが・・・」
王子が出席できないとやり直しになるところだったのね・・・
「殿下、何度も言っていますが、私は女です・・・」
「殿下、リディントンの言うように、彼の心は女です。男らしい姿を見られることに抵抗があるようなので、今回はこのような形となりました。」
ハーバート男爵が無茶苦茶な説明をした。いくらなんでもひどい・・・
「そうか・・・おぼろげにしかリディントンの影が見えないのは残念至極だが、致し方ない。昨晩の約束もあるしな。衝立越しにリディントンの晴れ舞台に立ち会うとしよう。」
これで納得する王子もかなり大雑把なのよね。
私はこの悪意のなさそうな元凶に文句をいいたかった。この人も『昨晩の約束』、守れていないよね。
「ヘンリー王子殿下、恐れながら、昨晩に腰の治療をさせていただいた際に、沐浴の儀は私の好きなようにさせていただけること、ハーバート男爵が担当すること、以上の二点をご承認いただきました。いらっしゃるとは存じませんでしたので、いろいろ殿下のご来訪を想定していなかったこともあり、見苦しいところをお見せしてしまいますが。」
なんで来たの?とはさすがに聞けないけど・・・
「肩肘を張らないでよい。もちろん約束通り、先輩騎士の役割は泣く泣くハーバートに譲り、衝立越しもリディントンの嗜好を思えば認めよう。しかし、見学については禁じられなかったように思う。この機会を逸することはできない。」
そういえば、見学を禁止していなかったかもしれない。そもそも見学ってできたの?
「そうでしたか・・・ですが・・・」
「恥ずかしがることはない、リディントン。ハーバート、続けてほしい。」
私が恥ずかしい理由を勘違いしていそうなヘンリー王子は、ハーバート男爵に続きを促した。
「承りました。騎士の心得、其の十。汝、常に正義の味方たれ。いかなるときも善の側に立ち、不正と悪に立ち向かうべし。」
ハーバート男爵はいまのところ一番騎士っぽい心得を読み上げた。
「ルイス・バーソロミュー・リディントン、バス騎士として、いついかなるときも以上の心得と名誉を守り、正義と真実を取り戻し、人々に愛され畏敬される騎士となることを誓うか。」
あれ、もう終わり?
「え、はい。誓います。」
早く終わってほしいから、とりあえず誓ってみた。すでに真実に背いているけど、そもそもこの儀式、無効よね?
「ハーバート、十戒だけではシンプルすぎないか。私がこの後を受けてさらに古代から伝わる教訓を説いてもよいが・・・」
話の長いヘンリー王子の介入だけは絶対に阻止しないといけない。
「おそれながら、ヘンリー王子殿下。シンプルな儀式は庶民出身者として質実剛健を忘れぬよう、私が頼んだことでして、また、これ以上長くなりますと、私がのぼせてしまいます。」
「そうか、のぼせてしまってはいけないな。なぜか湯桶がかなり深いようにも見える。儀式のせいでリディントンが溺れてしまってはならない。」
湯桶が深いのはシルエットが見えないおかげで今はありがたいけど、さっきから膝を曲げて立っているから長くなるとしんどそうだった。
「それでは、これが活躍するときだな。」
王子の体格のいい影が、なにか布みたいなものを広げ始めた。
「殿下、それは一体・・・」
「沐浴の儀は、一枚の清潔な布で体を拭き清めることで完結する。リディントンの主君として、私にその名誉を与えてほしい。」
そんなの聞いてない!!!
セクハラ!!もし私が男でもこれはセクハラ!!
どうしよう!!!
「ちょっと、それは、えっと、申し訳、というか、そんな」
「遠慮することはない。衝立が邪魔だな。」
「殿下、すべてハーバート男爵が担当しますので・・・」
男爵たちの影が慌てて衝立をガードしているのが見えたけど、私は絶体絶命だった。
なんでこんなことになったの・・・王子に体を拭かれるなんてありえない・・・それ以前にいろいろ問題あるけど・・・
それにこれだとヘンリー王子、実質ブランドンに対して浮気しているよね。怒った本人が今朝みたいに乱入してきたらいいのに・・・
乱入・・・
私はひらめいた。
「あっ、スザンナ、そんなところで何をしているの?神聖な儀式だから入っちゃ駄目って言ったじゃない!」
私は誰もいない後ろを振り向いて叫んだ。
「・・・スザンナ、とは・・・?」
さっきまで意気揚々と衝立をどけようとしていたヘンリー王子の声が、急に暗くなった。
「申し訳ありません、ヘンリー王子殿下。スザンナ・チューリングは私の女中でして、儀式が終わったと勘違いしたのか、この神聖な場に入ってしまったようです。」
「そ、そうなのか、見えないが・・・」
ヘンリー王子は影しか見えないけど、明らかに動転していた。
「はい、私のすぐ後ろで縮こまっていまして。もうしわけありません、衝立からおよそ20フィートほどのところにおります。殿下のいらっしゃるところに女性が入ってしまったこと、心よりお詫びもうしあげます。」
「いや、謝るには、及ばない・・・」
ヘンリー王子は後ずさった。
「殿下、この責任をとって、私は殿下の従者を辞」
「殿下!本来であれば儀式の後は夜を通してビジリアとなりますが、今回は特例として、この後リディントンが殿下の数学のご進講に同席します。祝福はそのときでよろしいかと。」
ハーバート男爵が私の辞任宣言を遮った。辞任予定の私の日程、勝手に決められているの?
「そうか、ありがとう、ハーバート・・・では、私は気分が優れないので、済まないが失礼する。積もる話もあるが、数学の合間にするとしよう。短い間ではあるが、リディントンの晴れ舞台に立ち会えてよかった。ほんとによかった。後は頼む。」
過去数分間に感動する要素があったとは思わないけど、なんだか元気はないけど感慨深げな影が部屋を出ていった。女性が同室にいるという状況も嫌なみたいだけど、実際にいなくても関係ないのね。
実際には私という女性がいたけど。
「ほんとによかった・・・」
とりあえず私は危機が過ぎ去ったことに感動していた。
「ルイス、さすがの立ち回りだね。騎士の心得其の八にさっそく背いていたけど、とにかく無事でよかった。私も冷や汗をかいたよ。」
「男爵、あっさり王子に衝立を撤去されるところだったじゃない!!!私があのまま拭かれていたらどうしてくれるの!!」
妙にのんきな男爵を私は叱責した。
「・・・ルイス、悪かった。私もハーバート男爵ももう耳が限界だから、もうすこし声量を抑えてほしい。この部屋は特に反響が・・・」
「そんなことより、もう勝手にお風呂部屋に踏み込まれているから、このあと着替えるのが怖いわ。裏切り者のスザンナは信用できないし・・・」
さっきみたいに衝立で四方を囲むことも考えたけど、それでも途中でドアが開いたりしないか心配だった。
「心配はわかるよ。私達は退出するけど、スザンナと一緒にルイスが信用できる人間が入ってくるから、安心して着替えるといい。ルイス、大変な状況だったが、よくがんばった。」
信頼できる人って、そもそも同性で信頼できる人に出会っていない気がするけど。強いて言えば南の人たちかしら。
それにしても、なぜ美談みたいにしようとしているの?
「衝立があるなら私がお湯に浸かる必要はなかったし、そもそも騎士叙任自体しなくていいのに・・・」
「仮にさっきのように衝立が外されても、深い桶とワンピースというルイスを守る最後の砦があっただよね?リアリティが無いと疑われて衝立を外されてしまうよ。念には念を、だね。」
念には念を、と言う割には雑だったと思うけど。
「そうだけど・・・待って、男爵の位置から私がワンピース着ていたのがわかるの?」
「いや、ルイスは腰が細くてしまっているから、シルエットでそれがわからないように、ワンピースを着るようにとスザンナに頼んでおいたからね。それではスザンナ、後は頼んだよ。」
「えっ、そう思う?そうなのよね、別に私、完全に少年の体型ってわけじゃないのよね。男爵にしてはよく見ていると思うけど、うん。」
私は部屋から出ていく二人の影を見送ると、後ろでギイと音がして、スザンナと、ショールを被ったもうひとりの女の人が部屋に入ってきた。
ヴェールを外して見えた懐かしい顔に、驚いた私は思わず膝を伸ばして、お湯がジャバっと音を立てて桶からお湯が溢れた。
「えっ、アメリア!?」
「お嬢様・・・」
レミントン家で私専属のメイドだったアメリアが、スザンナの後ろから私を見つめていた。




