CCXCVIII 自白者ルイス・リディントン
私は後ろを振り返りながら走ったけど、追っ手三人の中で一番足の早かったハーバート男爵からも、そこそこ安全な距離ができていた。リアルテニスで鍛えた俊敏さを発揮できたと思う。
考えてみれば、靴のせいかもしれないけど現世では走るというシーンが少ないのよね。短距離走もマラソンも見かけないし、飛脚みたいな人もいない。移動は馬が多いし、歩兵は装備が重いから走らないんだと思う。アンソニーだけはいつも走っているけど、あれはアンソニーだし。
ヘンリー王子の部屋の前についた私は、ドアを叩いた。
「ヘンリー王子殿下!リディントンです!助けてください!悪漢に追われているんです!」
本来は従者が王子に助けを求めるなんて本末転倒だけど、きっとヘンリー王子なら許してくれると思った。非常事態とは言えなくても、重大な局面だと思うし。
王子が起きていないという可能性もあったけど、火事のときみたいな非常時にはすぐに逃げられるように誰かが控えているはず。それにさっきのウォーズィー司祭の言葉を借りれば、私の叫び声で起きたかもしれなかった。
「(ノリス、ドアを開けてくれ。)」
王子の掛け声があって、重厚なドアが開く。私はちょこんと顔を出したノリスくんを押し入れて、中に入る。
「ノリス君、ドアをすぐに締めて。」
「わかったんだ・・・えっ、誰!?なんで!?」
ノリスくんは女の格好の私を判別できなかったみたい。混乱しているピンクのノリスくんを差し置いて、私はドアを閉めて鍵を掛けると、部屋を見渡した。
ヘンリー王子はまだ例の派手な椅子に座っていなくて、天蓋付きのベッドの中でガウンか何かを着ようとしているみたいだった。ベッドカーテンのせいでシルエットしか見えない。
「リディントン、追われているとは大丈夫か。この部屋は安全には違いないが、念には念をだ。ノリス、剣を頼む。」
ベッドカーテンの中でうごめいていた王子は、自ら私を護ってくれる気でいるみたいだった。
こんな純粋で部下思いのヘンリー王子を騙してしまったのは心苦しいけど、だからといって騙し続けるのは間違っていると思う。
「殿下、私は殿下に謝らなければならないことがございます。」
「謝る?リディントンにはいくら礼を言っても足りないようなものだが。」
ベッドカーテンの奥の王子は、不思議そうに首を傾げた。
「それは私の正体についてです。ベッドカーテンを開けていただければ、私の意味するところがおわかりになるでしょう。」
「正体?たとえリディントンが外国出身だろうと、異教徒だろうと、私は恩義を忘れな・・・」
カーテンを開けたヘンリー王子は、私を見ると唖然として目を見開いた。やっぱり目は青いのね、小さめの瞳だからいつもはあんまりわからないのだけど。
すこし胸元がはだけた白いシャツに、黒と赤の縞柄のカーディガンみたいな上着を羽織った王子は、珍しく前世でも場違いのないような格好をしていた。寝起きだからか、いつものタイツじゃないのも嬉しい。ゆるい膝だけのブリーチを履いて、足元は素足のままだった。
カランと軽い音がした。床を見ると、王子が手に持っていた銀の耳かきを落としたみたい。あれだけ銀の耳かきはやめてって言ったのに。頻度も含めて王子は私の言いつけを全然守ってくれていないみたいだった。
「リ・・・ディントン・・・なのか・・・?」
呆然とした王子が噛みしめるようにつぶやく。こうして呆然としていても、やっぱり絵になるのはすごいと思う。でも男爵と違って、ヘンリー王子には笑顔の方が似合うんだけど。
「はい、そのとおりです。」
正確には違うけど、これからいなくなるのに本名を出したらややこしいから、ルイス・リディントンとしてお別れをしようと思う。
「そんな・・・はずが・・・」
王子はショックを受けているようだったけど、でもこれを乗り越えて強く生きていってほしい。
「ヘンリー王子殿下、ご覧の通り、実は私ルイス・リディントンは・・・」
私は顔をあげて、ヘンリー王子の戸惑う瞳をじっと見据えた。
「女装癖があるのです!」
ウォーズィー司祭の野太い声が響いた
え?