CCLXXXII 故人エリザベス王妃
見覚えのあるマホガニーの机、錆のある真鍮の燭台、少し古びたタペストリー、冷たい台座。
ああ、またこの夢か。
夢とわかれば醒めそうなものだが、この夢ばかりはいつも私を解放しない。
「ヘンリー様・・・ウォーラム大司教がお見えです。」
バーバラが消え入るような声でつぶやく。彼女の青白い顔で、すでにどんなニュースか私は察していた。そもそも、良いニュースならウォーズィーが来るのが普通だったろう。
「・・・入ってもらって。」
声変わり前の私の高い声が部屋に響き、バーバラは顔を伏せてドアに向かった。
前の夢よりも彼女の顔が不鮮明になっただろうか。こうやって細部は忘れていっても、この震えるシルエットはこれからも夢に出続けるのだろう。私の歌声を褒め称えていた姉上と義姉上の顔は、時々夢に出ても鮮明なままだが。
人は悪い思い出ほど忘却するのが早いのだろうか。だとしたらなぜ私はこの夢を見続けるのだろうか。
「王子様・・・」
隣に控えていたコンプトンが、不安そうに私を覗き込んでいた。
「大丈夫だ、コンプトン、ノリス。」
この展開がありうることは、事前に何度も知らされていた。それでも、受け止めることができなかった私は、虚勢を張るので精一杯だった。
部屋が開き、普段の臙脂の服ではなく、黒服に身を包んだウォーラムが現れた。ひざまずくと、まっすぐ私を見据える。
「ヘンリー王子殿下。」
ウォーラムは強い目をしていた。今思えば、まるで軍人のようだった。
「ウォーラム・・・母上は・・・」
私はなんと言えば良いかわからず、そのまま絶句したのを覚えている。
「残念ですが、母子ともに身罷られました。」
「身罷る・・・」
意味はわかっていたが、その言葉の慣れない響きを、私はオウムのように呆然と繰り返した。
「殿下・・・陛下も我々も悲しみに包まれていますが、ご心中、察するにあまりあります。なおアーサー様は油断のできない病状が続いておりますが、最悪期は脱した模様です。」
「・・・母上・・・メアリーのときは大丈夫だったのに?」
この私の反応を後になって恥じたが、当時はおそらく、母が亡くなったことを受け入れられていなかったのだろう。
「王妃殿下も年齢を重ねられ、ご出産が危険なのは明白でしたが、陛下も殿下も危険は十分ご承知でした。医療班も最善を尽くしましたが、誠に残念ながら力が及びませんでした。」
「じゃあ、なんで?なんでそんなことになったの?」
叫びたい衝動を抑えたつもりはなかったが、なぜか冷たい声しか出なかった。
「聡明なヘンリー様はご存知のことですが、国王陛下は赤軍派王族の最後の生き残りでいらっしゃいます。アーサー王太子殿下が危篤となり、赤軍の血を引く男児はヘンリー様のみになる恐れがありました。陛下に何かあれば、白軍派の王族が巻き返しを図るのは明白で、ヘンリー様の肩にすべての重責がのしかかります。もし弟君が」
「産まれなかったよね。」
私は発火できない自分の怒りをぶつけるように、ウォーラムを遮った。
「殿下、最善の結果を目指したものが、望まれない終わり方をすることは珍しくありません。しかし決してそれは最善を目指すなという教訓ではありません。」
「ねえウォーラム、僕の負担を軽くしようとして、母上は死んだの?僕のせいで死んだの?」
ウォーラムの言葉はいつも含蓄に富んでいたが、このときの私は耳を傾けるつもりなどなかった。
「殿下、おやめください。全てはこの国の安寧を願われたからこそです。殿下のせいではありません。」
「その安寧ってやつに、置いていかれた僕は入っていないんだね。わかってる?僕は母上に死なれたんだよ、僕のスペアが、保険が必要になったからって。僕はこれだけ閉じ込められているのに、まだ安心できないって。」
兄上が病気に倒れて以降、私が感染するのを恐れた家臣は兄上どころか症状のない義姉上にさえ会わせなかった。姉上が北の国に嫁いだばかりのあの頃、私にかかる重責は理解していたつもりだった。
それでも、私では両親は安心できなかったのだろうかと、自問せざるを得なかった。
「殿下、そのようなことは決してありません。アーサー様がお元気であろうと、たとえ他に継承者がいようと、殿下のご無事が最優先であることは自明ですし、王妃殿下と国王陛下はヘンリー王子殿下に気を遣ったのでなく、この国のことをお考えになったのです。」
「この国、ね。ねえウォーラム、戦ってこの国の領土を守り抜いた五代前の王様を、みんなが英雄って言うよね。でも五代前の王様が若くして戦病でなくなったから、この国は内乱になったんだよね。国のために死ぬのが王族じゃないでしょ。国のために生きるのが王族だって、ウォーラム、お前が言ったんじゃないか!!なんで母上を死なせたんだよ!!!」
だんだん煮えたぎるように怒りが高まり、私の声はどんどん大きくなっていった。
「殿下、何かをすることのリスクに怯え、何もしないことがむしろ危険な場合もあります。陛下も王妃殿下も、そうやって内戦を生き延び、戦後の国をまとめあげてきたのです。どうかスペアなどという言い方をなさらないでください。しかし、アーサー様に何かあったときのことを考えなければならないのと同様に、ヘンリー様のことも考えねばならないのです。王家の血筋が絶えないことで、救われる人々がどれだけいることか。」
「そうやって母上を追い詰めたの?僕が死ぬかもしれないって?僕一人じゃ足りないって?国民のためだって?」
このときウォーラムはどんな心境だったろうか。険しい表情を変えなかったのを覚えているが、彼にとって私は単に喚き散らす子供だったろうか。それとも・・・
「殿下、旧白軍派のみならず赤軍派の臣下も、王妃殿下を心配しておりました。融和の象徴である王妃殿下ご自身が亡くなるのは、平和にとっての打撃になることは間違いありません。しかし、最終的にお決めになったのは国王陛下と王妃殿下です。臣下はお二人のご決断を尊重しただけです。全ては愛するご二人の信頼関係があればこそです。」
「愛?ねえウォーラム、みんなが父上と母上は愛し合っているっていうね。僕もそう思っていたよ。でも父上は、母上の命を危険にさらすことを、平気でするんだね。もし父上に何かあって、もし敵が再び立ち上がって、もし僕だけじゃ頼りなかったからって、『もし、もし』って言い続けるのに、『もし母上が亡くなったら』とは考えなかったんだね!そこまで大事じゃなかったんだね!!!」
ウォーラムはこのとき始めて気圧されたように見えた。
「命をつなげていくというのは、いつだって命がけです。殿下のお年で愛を理解されるのは難しいかもしれませんが。」
「そうだね、僕には一生分からないかもしれないね、心中が愛だっていう人もいるもんね。僕は・・・僕は好きな人を、穏やかに見守る。傷つけるようなことは絶対にしない。愛しているからって、奥さんを戦場に連れて行く騎士なんて一人もいないよね!?同じことじゃないか!!!」
まだいたいけな少年だった私が叫んでも、説得力のない台詞だっただろう。だが、ウォーラムは馬鹿にする素振りを見せなかった。
「殿下・・・子供を欲しいと願われる女性も多くおられます。その願いを叶えることは、彼女を死に至らしめる可能性があります。では彼女たちは我慢するべきでしょうか。殿下、山賊から故郷を守りたいと願う男達は、死ぬ危険のないところに移住すべきでしょうか。愛する相手のためなら死んでも構わないという人間に、命のために愛は忘れろと告げるべきでしょうか。それは殿下がお決めになることでしょうか。」
「ねえ、ウォーラムは独身だよね。」
このときの私はウォーラムが愛を語ることに不満を覚えていた。今思えば私が愛を語るのもおかしかったが。
「・・・はい、この身は神に捧げておりますゆえ。」
「ウォーラム、僕も神の道に入るよ。好きな人が手に入らないのはわかっている。どのみち僕の奥さんも、子供も、きっと不幸になるんだ。僕と母上のようにね。男の子が欲しいって。一人じゃだめだ、二人じゃ足りないって。」
「殿下、誰かが不幸から逃れたとしても、別の誰かが不幸になるだけです。不幸に立ち向かう者がいて始めて、不幸そのものを無くしていくことができるのです。どうか王妃殿下のご遺志を」
「ねえウォーラム、五代前の王様も、母上も同じなんだよ!運命に立ち向かって、華やかに散っていったんだよ!でも志を継げなんて、迷惑なんだ!美化しないで!置いていかれる僕たちをエピローグにしないでよ!母上っ!!母うえええっ!!!」
母上にもし会えたら何を言いたかったのか、今となっては忘れてしまった。ただ名前を叫んでいたのを覚えている。
「殿下・・・」
「ねえ、ウォーラム。僕は父上が嫌いだ。父上が悪い人だからじゃない。それは父上が責任のある国王だったからだよ。父上の愛が、間違っていると僕が思うからだよ。だから僕は逃げる。みんなが僕は無責任だといっても。むしろみんなが僕を残念なやつだと思ってくれたらいい。」
「誰もが不幸になる可能性をもっています。殿下の判断と行動次第で、殿下自身のみならず、多くの人を幸せにする可能性があるのです。」
わめいている子供相手に、このときのウォーラムは真剣だった。
「ウォーラム、僕では多くの人を守れない。僕は母上みたいになれないし、父上みたいになりたくない。僕は好きな人を、誰かのために危険に晒せない。好きな人だけ、守りたい人だけ、守るよ。」
「殿下はその御方を籠の鳥にするおつもりですか。お相手を尼僧にでもされるおつもりですか。そうでもなくして、お二人がずっと誠実でいられるとでも?」
「籠の鳥・・・」
私に初めて魔が差したのはあのときだった。具体的に何かを考えたわけではなかったが。
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「王子様!王子様!」
耳元のノリスの声で、私は夢から引き戻された。
「ノリス・・・」
目を開けると、部屋は明るいままだった。
「うなされてたし、寝汗がすごいんだ。今水をもってくるから」
「ありがとう。」
身を起こすと、身が軽いのに気がついた。そういえばリディントンに天国を見させられたのはついさっきのことか。
天国か、あの夢のあとでは皮肉な響きだ。
「コンプトンは?」
「あっちでダウンしているんだ。そんなことより、王子様、またあの夢?」
ノリスは心配そうに私を覗き込んでいた。ゆっくりうなずく。
「ノリス、これは天罰なのかもしれない。」
「なんで?王子様は何も悪いことをしていないんだ。最初から全部決まっていたんだ。」
私もそう思っていた。困難から逃げ切った、幸運で無害な傍観者だと思っていた。ふと疑念が差した今日の夕方までは。
「ノリス、便箋と羽ペンを頼む。」
このようなときに手紙など書くべきではないのはわかっている。でも何かをしていないと落ち着かなかった。
先程リディントンの言っていたことが思い出される。
『殿下が『リディントンには緑が似合う。今後も緑を着るといい。』とおっしゃったなら、私は泣く泣く青を諦めて緑を着るようになるのです。たとえ殿下がそうした意図を持っていないとしても。』
もし、私の浅ましい考えに、気づかれていたとしたら。
「枢機卿に手紙を書きたい。」
確認したからといってなんだというのか。ただの自己満足ではないか。
ウォーラムが『そもそも全ては殿下の自己満足です』と言う光景が目に浮かんで、私は首を振った。