CCLXXXI 枢機卿ドン・ペドロ・デ・アヤラ
ピカピカに磨き上げられた重厚な執務机に、質のよさそうな便箋が無造作に置かれている。さっきまで王子が握っていた装飾品みたいな羽ペンが、切子の優雅なインク入れに差してある。
「置き手紙にするには勿体ない、上質な紙ね。」
現世の紙はクオリティの差が激しい。法律や契約は長持ちする羊皮紙に書くけれど、手紙に使われている紙はものによっては保存を想定していないものもあった。今みたいに読んだら暖炉で燃やしてほしい置き手紙をするときには、かえってその方がちょうどよかったけど。
でもやっぱり王室御用達だけあって、ザラザラしていないなめらかな紙の便箋だった。どうせなら失敗して破棄予定の便箋なんかがあればちょうどいいのだけど。
「(聖女様、たとえヘンリー王子が強引で聖女様の要求が正当であったとしても、先程のはよくありません。ご自分を大切にするようお願いいたします。)」
モーリス君はさっきから不満そうだったけど、声を抑えて抗議してきた。王子かコンプトン先輩が起きるかもしれないからだと思う。
「(さっきのって、王子の膝にまたがったこと?でもあれは腰の治療のために仕方なかったのよ?別にはしたないことはしていないわ。モーリス君の耳はきれいになったし・・・)」
「(それもありますが、ヘンリー王子が沐浴の儀に立ち会うのを諦める代わりに王子を気持ちよくして差し上げる、という取引はよくありません。聖女様の貴重なお力を間違った目的で使わないようにしませんと、穿った見方をする者たちが現れます。)」
そういえば、とっさにそういう取引をしたような気がしないでもなかった。潔癖なモーリス君からしたらいかがわしく感じたかもしれない。
「(モーリス君の言いたいことは分かるわ。次から気をつけようと思うの。でもモーリス君の亜脱臼と違って、腰痛はすぐに治るものでもないし、王子は気持ちいいことが好きだから交渉材料としてはあれが最適だったのよね。)」
とりあえず私は貞操を守らないといけなかった。私だって望んで取引したわけではないし、仕方がなかったと思う。
「(聖女様、ヘンリー王子にそうしたサービスを当たり前のように期待されるようになると、身をやつされてしまいかねませんよ。)」
確かに今すでに耳かき中毒の王子がマッサージ中毒になるところは想像できた。けっこう力仕事だし、重労働になってしまうかもしれない。
「(今回は追い込まれていたから、やむにやまれずだったの。王子が起きてきてまた沐浴の儀を蒸し返さないうちに、メッセージだけ置いて御暇しましょう。)」
私はふと手元の書きかけの手紙に目を落とした。宛名に枢機卿というタイトルが目に入ったけど、そういえば私が赴任してから何回か王子が枢機卿の話題を出していた気がする。
「(私がモーリス君の耳掃除をしていたときに王子が書いていたのは、枢機卿への手紙みたいね。宛名はわかるけど、古典語で書いてあるからなんの要件かはパッと見ただけでは分からないわ。)」
古典語の手紙はすごく壮麗で装飾の多い筆跡で書かれていて、逆に読みづらかった。ヘンリー王子の部屋や話と一貫している気がする。
「(聖女様、むやみにご覧になってはよくありませんよ。)」
モーリス君にいわれずとも、人のプライベートな手紙を覗き見しようとは思わなかったけど、ある単語が目に入った。
『レヴィス』と『マウリス』。
「(私達の名前の古典版じゃない。人事評価でも送っているのかしら。)」
気になって、思わず前後を読んでしまう。
[レヴィス、いつくしむやうにて、マウリスがみみに、ありけるくしをさしいれていはく『こころをまどはしたまふな。ねんじすぐせ、マウリス』と。こたへてマウリス、ものもおぼへぬここち、しのびあへぬさまにて、『あゝ、かようなところにおしいれては、あなう、われはもう・・・』と。・・・]
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・・・・・・
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「・・・モーリス君、私は何も見なかった、私は何も聞かなかった、そして私は何も言わなかったの。そう証言して。」
完全に意味がわかったわけではないけど、手紙の大体のニュアンスは伝わった。見なかったことにしよう。墓場まで持っていこうと思う。
「どうなされたのですか、聖女様。」
「どうって、肖像権どうなってるの、とか、ヘンリー王子の趣味ってどうなの、とか、いろいろ問題あるけど、とりあえずここを出ましょう。」
王子がどんなに華麗な言い訳を用意しても、よくわからない枢機卿に私がモーリス君の耳かきをするシーンを詳細に報告することに、私が納得できるとは思わない。
そう、見なかったことにした方がみんな幸せ。王子の意図はわからないけど、わかったところで幸せな展開が望めそうになかった。
「・・・モーリス君、ひとつ確認したいんだけど、枢機卿って教会の偉い方よね。」
「ドン・ペドロ・デ・アヤラですか。すばらしい方です。教皇庁直属の任命ですから、陛下でも解任はできない高位な聖職者でいらっしゃいます。とはいえ、この国と北の国の講和を仲介したのもドン・ペドロでしたし、国王陛下の信頼を得ていると思います。」
モーリス君の尊敬を勝ち得ているみたいだった。そんなすごい人が、従者二人が耳かきするシーンを読んで何を思うのかしら。
「その、えっと、ドン・ペドロは変わったご趣味をお持ちだったりする?たとえば、だけど、王子の少年合唱団、協賛していたりしないかしら?水泳大会は?」
「いいえ、僕の知る限りでは存じません。非常に教養のある文化的な方で、数ヶ国語を自在に読み書きしている方ですが、とくに周りの騒ぐようなご趣味があったようには思いません。近頃は低地諸国に赴かれていらっしゃるので、聖女様のおっしゃるのが最近のことでしたたら僕にも分かりかねますが。」
海の向こうの枢機卿に、どうでもいい内容の手紙を王子は送ろうとしているのかしら。わざわざ古典語に直しているのは、誰かに読まれたら恥ずかしいからだったりして。
とりあえず、文通で書くことが尽きてしまった、という解釈で行こうと思う。まさか、王子の薄い本を定期購読しているという展開はないよね。
ないよね?
「・・・う・・・うう・・・」
コンプトン先輩が、長椅子の上で身をよじらせた。
「今二人が起き上がったら色々と困るわ。モーリス君、置き手紙は諦めて退出しましょう。後はノリス君が来てなんとかしてくれると思うの。」
「そうですか。ヘンリー王子が怒るとは思いませんが、僕たちでは鍵がかけられないので、無防備に残されたコンプトンは不機嫌になるかもしれませんね。」
二人共伸びちゃっているから、このまま放置するのは問題はあると思うけど、東棟全体としては警備がしっかりしているし、大丈夫だと思う。
それより私が早くここを出たい。
「コンプトン先輩に後でグチグチ言われるほうがいいわ。さあ、行きましょう。」
私はモーリスくんを引き連れて、逃げるように装飾の多い部屋から出ていった。




