CCLXXVI 権力者ヘンリー王子
せっかく耳かき騒動でごまかせたと思った沐浴の話題をしれっと蒸し返したヘンリー王子は、明らかにイエスしか期待していないキラキラした目で私を見ていた。さっき何かを書き記していた羽ペンと紙はノリスくんに渡している。
王子は割と目が小さいから今までわからなかったけど、よく見ると少し緑がかったダークブルーの瞳をしているみたい。ヘンリー王子というとライオンみたいな髪色と精悍な顔つきのインパクトが強いし、今の格好だと普通の人はどうしても首から下に目がいくだろうから、あまり目に注目がいかないかもしれない。
「改めて、無理にとは言わないが、私に訓戒を説かせてもらえたら非常に嬉しい。リディントンの騎士としての門出を祝う栄誉ある役回りなのだからな。」
改めないでほしかった。さっき私が遠回しに嫌っていったのは無効になって、振り出しに戻ったのかしら。
「殿下、お忘れかもしれませんが、私は以前に泉で殿下のような屈強な男達に襲われかけた経験がございまして、そのときは事なきを得たものの、それ以来・・・」
「それは気の毒に思っているが、今回は裸になるのは私でなくてリディントンなのだから問題ない。不安ならある程度距離をとる用意もある。もしひとりだけ脱衣するのが気まずいなら私も」
「結構です!!」
ただでさえ目に毒な、バスローブ姿みたいな格好をしているのに、変なことを言わないで欲しい。あと、王子が裸の付き合いにこだわる理由をそろそろ知りたい。私がブランドンみたいな王子好みの体をしていないのは見れば分かるはずだけど。
「リディントン、そうであれば私が訓戒をしても問題はないということで良いだろうか。後はリディントンが私とハーバート男爵のどちらを選ぶかということになる。無論強制はしないが、私を選んでほしいと思う。」
「殿下、お言葉ですが、殿下はご自身の言葉の重みを軽視されているように思います。」
私はなるべく抽象的な話題に持っていくように心がけた。
「軽視?自分の言ったことには責任を持っているつもりだが。」
「有言実行という意味ではそのとおりかもしれません。しかし殿下の、『無理にとは言わない』気軽なお誘いは、部下にとっては絶対命令になってしまうのです。たとえばここに横たわっているモーリス君は、殿下の『お勧め』に逆らえず、不本意ながら不必要な耳かきをされ、耳の皮質を痛めてしまいました。」
二つ繋げられたオットマンに倒れ込んでいるモーリス君は、少し抗議したそうな目で私とヘンリー王子を交互に見た。
「いや、ルイスもかなり乗り気だったし、そもそも実行犯だよね。」
「男爵は黙っていて。よろしいですか、殿下。例えば私は今モーリス君に借りた緑の服を着ていて、この服を気に入っていますが、仮に青のほうが好きだとしましょう。殿下が『リディントンには緑が似合う。今後も緑を着るといい。』とおっしゃったなら、私は泣く泣く青を諦めて緑を着るようになるのです。たとえ殿下がそう意図を持っていないとしても。」
現実には王子が緑を気に入っても私は着たい色を着ると思うけど、とりあえず今はそういうことにしておく。
「心配ない。リディントン、私は部下に自分の好みを強要するような、狭量な人間ではない。そもそも私は国王でもなく、第二王子に過ぎないのだ。法の上の人間ではない。」
「殿下のお優しいお人柄は存じておりますし、法に則ることは素晴らしい心がけと思います。しかし殿下が王族でいらっしゃる以上、臣下の私が殿下の好みを忖度しないわけにはいかないのです。」
いずれ国王になるかもしれないお方、と言うとどういう反応をするだろう、と少しだけ気になった。言わないけど。
「緑が私との沐浴の儀で、青がハーバート男爵ということか。それほどハーバート男爵がいいというのか?」
王子は少し心が傷ついたライオンのような顔をした。抽象的な議論にして具体的なお風呂の話から遠ざかる作戦は失敗したみたい。
「殿下、もちろん私と同じような出自から出世を遂げ、経験を積んできたハーバート男爵にお聞きしたいことはたくさんあります。しかし、それだけではありません。」
色々お聞きしたいです。例えば『なんでこんなことになっているの?』とか、『いくらなんでも急すぎるでしょう?』とか、『本気でお風呂を覗く気でしたか?』とか。
「リディントン、私では経験不足だということか。境遇が違う者同士、わかりあえないというのか。」
王子は珍しく少し悲しそうな顔をした。これで情に流されると、『やはり身分を超えてわかり合おうではないか』などと言われそうだから、否定はせずに早めに反論をしておく。
「もちろん殿下には殿下の強みをお持ちです。しかし、もうひとつ理由があります。私としても殿下の訓戒をうけることは光栄なことでしょうし、殿下もそれをお望みかもしれません。ですがそうした栄誉にあずかれない第三者は何を思うでしょう。」
「リディントンの栄誉はリディントンが勝ち取ったものだ。前にも言ったが、風評を気にする必要はない。」
考えてみれば美男子を侍らせていて女性を寄せ付けないヘンリー王子の風評はひどいものだろうし、本人も多分気にしたことがないと思うけど。
「殿下、たとえばコンプトン先輩は私のことをよく思っていないように思いますが、それは理解のできることです。殿下は新任の私を『ルイスと呼びたい』などとおっしゃいました。それは殿下と長い付き合いのコンプトン先輩にとって、屈辱的だったのでしょう。」
「リヴァートン、余計なことを言うな!」
コンプトン先輩はもともと赤い頬をますます赤くして、パッチリした目をさらにパッチリさせた。怒った先輩は可愛い。
「コンプトン、落ち着いていい。しかしリディントン、理屈は分かるが、フィッツウィリアムがいる以上は公平を期して二人のどちらかをウィリアムと呼ぶわけにはいかない。」
「殿下はヘンリー・ギルドフォードをハリーとお呼びでしたね。ヘンリー・ノリスはノリスですが。」
ヘンリー王子は反論が思いつかなかったのか、黙ってしまった。多分深い理由はないんだと思う。
「このように、殿下が良かれと思って誰かにすることが、第三者にとって悲しいことであることもあるのです。そして殿下が贔屓にする相手は、そうした第三者に睨まれる可能性さえあるのです。」
「リヴァートン!王子様の優しさを悪く言うなんて論外だ!お前は去れ!そうでないなら決闘だ!」
昨日に引き続き、今週二回目。
「コンプトン先輩、前回は顔そり対蒸しタオルしでしたけど、次の種目はなんですか。」
「なっ、もっと公平で、俺が勝てるやつだ!」
コンプトン先輩にとって『公平』とは一体なんなのかしら?
「ここで私から提案があるよ。」
今まで黙ってくれていた男爵が前に出た。
「ルイスは腰の治療が得意だが、これは耐え難い快感を伴うね。そこで、最後まで正気をたもって起きていられたらコンプトンの勝ち、そうでなければルイスの勝ち、というのはどうかな。これから殿下に治療することを考えて、コンプトンが実験台になって概要がわかったほうが、殿下としても安心だろう。」
「そんな訳のわからない勝負は無理だ!」
コンプトン先輩は意外と男爵にごまかされなかった。
「コンプトン、君は快感に勝てないというのかな。」
男爵がいたずらっぽそうに笑う。
「そっ、そんなことはないぞ!ただ、俺のしらない競技で勝負するのが嫌なだけだ!」
「コンプトン、鎮火のときに腰を痛めていただろう。私よりもまずコンプトンが治療を受けるべきだ。ウィンスローの提案するこの勝負、勝っても負けても悪いことはないのではないか。・・・もちろん、強制はしない。全く違う種目にしてくれても、私は歓迎する。」
殿下がのんきなことを言っていたけど、ついさっき私に言われたことを気にしたのか、慌てて譲歩を付け加えた。
「王子様がこれがいいっておっしゃるなら、俺はそれでいいです。でも俺の腰のことは気にしないでください。さあ来い、リディントン。」
コンプトン先輩は私を睨んで身構えた。これからマッサージするのに身構えられても困るんだけど。
「ええと、コンプトン先輩も消火を手伝ってくれたんですね。ありがとうございました。てっきり殿下と避難されているものだと思っていました。」
「なんだとっ!俺はともかく、王子様はっ・・・」
「コンプトン!別に構わない。」
憤慨して何か言おうとしたコンプトン先輩を王子が遮った。よくわからないけど、立場的に同格な私が『ご苦労さま』という態度を取ったのが気に入らなかったのかもしれない。
「不用意なことを言ってすみません。ではコンプトン先輩、とりあえず上着を脱いで、平らな場所に横になってもらえますか。」
「そんな、隙を見せるようなことはできない!」
隙を見せてもらわないとマッサージなんてできないんですけど。
「同意したならルールは守ってください、先輩。斬りませんから。」
「リヴァートン、お前なんかに、俺は絶対に負けない!」
かっこいい捨て台詞を吐きつつ、律儀に上着を畳んで長椅子に横たわるコンプトン先輩はなんだか可愛らしかった。
ーーー
参考:登場人物の髪
*CCLXXVI時点で髪が明らかになっている登場人物だけ、おさらいさせてください。
*登場人物の多くはしょっちゅう帽子やスカーフを被っているので、いつも髪型がはっきり分かるわけではありません。
ルイース・レミントン / ルイザ・リヴィングストン / ルーテシア・ラフォンテーヌ
明るめの栗色 ストレートの長髪で、普段は結っている
ルイス・リディントン
まだらのある茶髪 女性のショートヘアのような長さで、やや癖がある
ルクレツィア・ランゴバルド
絶えずスカーフで髪を覆っているため、髪色も髪質も分からない。
ーーーヘンリー王子周辺
ヘンリー王子
赤の入った金髪 ライオンのたてがみのような髪 普段は無造作だが夜会では整える
チャールズ・ブランドン
オリーブ色の入ったダークブロンド ウェーブがかかっている トリムした髭がある
ヘンリー・ギルドフォード
少し茶色の入った黒髪
ジョン・ゲイジ
プラチナブロンド 髪は比較的短い 蒼白な肌の色とあまり変わらない
トマス・ニーヴェット
茶髪 後ろ髪は短く、前髪はブローしている
ヘンリー・ノリス
明るめの茶髪 くせっ毛でくるくるした髪
ウィリアム・コンプトン
黄土色の髪 ノリスと同様のくるくるパーマ
ウィリアム・フィッツウィリアム
ピンクベージュの髪 毛先だけ外にカールしている
フランシス・ウッドワード
茶髪
ーーールイーズの世話係
ウィンスロー男爵
焦げ茶 普段はオールバックにしている
ゴードン・ロアノーク
光沢のある黒髪 口ひげがある
ヒュー・モードリン
長めの茶髪
スザンナ・チューリング
鮮やかな赤髪 ロングヘア だいたい下ろしている
フランク・アームストロング
黒い短髪
アンヌ・ポーリーヌ夫人
暗めのブロンド 結ってある
ベンジャミン・タイラー
白髪
ーーーアーサー王太子周辺
アーサー王太子
? (ヘンリー王子と同じ髪色という)
アンソニー・ウィロビー・ド・ブローク
鮮やかな金髪 すこし癖がある
モーリス・セントジョン
ベージュ色のサラサラヘア 男性にしてはやや長めの髪 ブロンドだが光沢は控えめ
ジェラルド・フィッツジェラルド
?
ロバート・ラドクリフ
?
グリフィス・ライス
?
コナー・マクギネス
?
オズワルド・ホーデン
?
ーーーメアリー王女周辺
メアリー王女
ヘンリー王子より落ち着いた赤髪
エリザベス・グレイ
赤茶色の髪 普段はひっつめている
アン・ブラウン
シルバーブロンド 少しカールしている
アン・スタッフォード
黒髪
ギルドフォード夫人
? (髪飾りと帽子で髪が見えなかった)
アグネス
? (キャップで髪が見えなかった)
ウェストモアランド伯爵
サラサラの金髪
ーーーキャサリン王太子妃周辺
キャサリン王太子妃
金髪(はちみつ色)
マリア・デ・サリナス
黒っぽい茶髪
ドナ・エルヴィラ
ダークブロンド
プエブラ博士
なし
ーーー北の国関係者
ダグラス・キンカーディン=グラハム大使
いのししのような髪 もじゃもじゃの髭
ドナルド・ホーズバラ
?
エイブラハム・ハーシュマン
?
ーーー近衛師団
サー・エドワード・ネヴィル
灰色
サー・アンドリュー・ウィンザー
横になでつけたグレーの髪
サー・クリストファー・ウィロビー
?
ーーー教会関係者
トマス・ウォーズィー司祭
黒髪
トマス・フィッシャー司教
なし
ーーー政府・軍高官
ウィリアム・ウォーラム大司教
短めの白髪
エドマンド・ダドリー枢密院議長
短いグレーヘア
バッキンガム公爵
?
ドーセット侯爵
?
ーーーその他ルイーズの知り合い
トマス・スタンリー卿
赤茶色 顔を囲うように髭がある
アーノルド・セッジヒル
髪の毛が寂しい
マージョリー・ヘイドン
優しい亜麻色 縦ロールをかけている
ーーー裏の主人公
ドロテア
ミルクティー色の三編み