CCLXX 新大陸航海船団長セバスチャン・カボット
リディントン家の紋章を考え終わって、私はちょっとゆったりしたい気分だったけど、スザンナが出ていったあとも部屋の人口密度は高いままだった。アームチェアはアンソニーに占領されているし。
「ええと、みんな手伝ってくれてありがとう。せっかく来てくれたマージと水入らずの時間をすごしたいんだけど、大丈夫かしら。あと、できたらアンソニーを運び出してくれるとうれしいんだけど。」
「ルイス、残念だけどヘンリー王子がお呼びだ。行かないといけないよ。」
男爵はいつもどおりの苦笑を浮かべた。ここの労働環境はいいほうだと思うけれど、住み込みだと勤務時間というコンセプトはないのかしら。
「男爵、今日はヘンリー王子からお休みを頂いていたんだけど。」
二日酔いから回復するためのお休みだったけど。そういえば階段を上っているときは少し気持ちが悪かったけど、今は酔いが冷めていると思う。ウェストモアランド伯爵のウィスキーは悪酔いしない上等なものだったのね。
「そうだね、しかし騎士叙任の件もヘンリー王子がかなり乗り気だったからこそ、トントン拍子で進んだ面があってね。一応は意向を確認しておくといいと思うよ。」
私が耳から水を抜いただけで勲章をくれようとしていたあの王子のことだから、当然やる気だと思う。
「気が重いわ・・・」
「僕もご一緒させていただいてもよろしいですか、聖女様。」
モーリス君が思いつめた顔をして私に問いかけてきた。
「もちろんお願いするわね。モーリス君。どうしたの?顔色がよくないけど。」
「いえ、先程火事の顛末を報告するために、ヘンリー王子殿下のところへ行ったのですが、なぜか殿下が聖女様と温泉に入る話をはじめまして、心配になったのです。」
「温泉!?」
現世で温泉とは全く縁がなかったから一瞬楽しみになったけど、どのみち王子の入浴シーンを見る羽目になるだけで私は入れないんだろうなと思って、すぐに興奮が冷めちゃった。
「ルイス、中庭の修復が終わるまで、ヘンリー王子と東棟のスタッフはエイヴォンの湯治場に避難することに決まったよ。そのことだろうと思う。」
「エイヴォン?修理工事中の一時避難にはかなり遠いじゃない。」
地図で見たことしかないけど、エイヴォンはここから更に西のほうの海岸沿いで、100マイルはあると思う。現世ではメートルを使わないし、前世ではマイルを使わなかったから換算できないけど、ここからノリッジくらいの距離はある。
「魔女様、新大陸行きの船は、セバスチャン・カボット船長のいるブリストルの港から出向するんだぞ。今度の避難先とかなり近いけど、すごい偶然だな。」
まだアンソニーの体はくたっとしていたけど、すっかり意識は取り戻していて、今夜は運ぶ心配はないみたい。
温泉と港が近いのは偶然であってほしいけど。
「男爵、これは偶然かしら。それとも私を誘拐してすぐに船に乗せられるようにという計画だと思う?」
「湯治を提案したのは味方のハーバート男爵のはずだけどね。少し情報収集が必要になるよ。しかし宮殿ではなく保養地となると、警備は手探りな部分があるね。」
さっきからニヤニヤしていた男爵は久しぶりに渋い顔をした。渋い。良い。前にもおもったけど照明が下からあたる感じなのもまた一興ね。彫りの深い顔は、いつもにまして立体感を出していた。男爵のアンニュイな目は夜の明かりとマッチする。
それにしても、たしかに温泉地となると警備が緩そうな気がする。ただでさえヘンリー王子は不思議なほど警戒感が薄いのに。
「魔女様、カボット船長は新大陸経験もあって頼りになるらしいぞ。ついでにいうとウィロビー・ド・ブロークの紋章は赤地に金のマルタ十字で、かなりかっこいいぞ。」
「遅いわ、アンソニー。もうリディントンの家紋は決まっちゃったの。新大陸もそうだけど終わった話を蒸し返さないで。警告という意味ではありがたかったけど。」
アンソニーの『連れて行かないし、俺もこの国残るっ!ふやあああっ!』をどこまで信用していいか、まだ少し心配。誘拐犯がアンソニーだったらこうやって返り討ちにできるけど、一度失敗しているから今度は手強い人が送られてくる気がする。
「聖女様、警備の面はもちろんですが、殿下とのことも僕は心配です。いくらあの殿下とはいえ、温泉で聖女様を前にしては、魔が差して手を出しかねません。」
「私は王子のタイプじゃないから魔は差さないと思うけど、普通に大問題よね。水浴びのときも勧誘がしつこかったから、今度も『私と温泉に入れないというのか』とか言ってきそうだし、気がのらないわ。」
私と王子の愛するブランドンの共通項はゼロ。王子が私を襲う心配はしていないけど、入浴を断ってややこしいことになるのは想像できた。
「ルイスは温泉への同行は辞退したいということでいいのかな。中庭の修復は一週間くらいで終わると思うけどね。」
「そうね、ノリッジで水道工事を監督した経験があるから、今度の修理を監督する係を引き受けてもいいし、どうせなら騎士叙任を家族と祝うためにヨーマスに帰る、という口実でノリッジに一旦里帰りしてもいいと思うわ。契約には違反しないわよね。」
長旅はタイミング的にも気乗りがしなかったけど、もしどのみち西か東に100マイル移動しないといけないんだったら、どちらかと言えば東に行きたい。
「ルイーズ、里帰りはいいアイデアだわ!そのまま『家族との時間を大事にしたい』とコメントをだして宮仕えから引退しちゃいましょうよ!」
マージはさっきから一貫していた。
「いえ、聖女様の里帰り中を狙われる可能性もありますし、引退したら強引な勧誘がかかるでしょう。警備という面では、一時的に大司教様預かりになっていただいてもいいですが、僕がアーサー様の避難先に聖女様を連れていけないか、掛け合ってみましょうか。ここから近いエルサムの宮殿ですし、第二王子よりも警備は格段に良くなります。当然、聖女様の治癒ができるチャンスも増えるでしょう。」
エルサムなら王都にも近いし、安全で遠くないと言われると少し魅力的だったけど、考えてみれば誘拐に現れたアンソニーもフィッツジェラルドも王太子の従者なのを思い出した。
「うーん、アーサー様にマッサージをしてあげたいけど、私を監視しているジェラルド・フィッツジェラルドと顔を合わせないといけないし、私を貶めたなんとか男爵もアーサー王太子の従者なのよね。味方がモーリス君だけだと少し怖いわ。」
モーリス君は頼りになるし信頼も置けるけど、平均的な誘拐犯と一騎打ちになったら絶対勝てないと思う。
「ジェラルドもロバートも悪人ではありません。彼らの意図はわかりませんが、無罪になった聖女様をなお魔女と思い込んで、排除しようとしている節があります。真実を知れば聖女様に危害を与えたりするはずがないので、僕も説得を頑張ろうと思いますが、やはり教会に認定していただくのがいいと思います。」
ことあるごとに教会を推してくるのが玉に瑕なのよね。私はモーリス君みたいに質素に信仰に生きるライフスタイルは送れない気がする。教会に入ればマッサージし放題にはなるだろうけど。
「誤解なのか敵意なのかはわからないけど、今の時点で問題が解決していない以上は、アーサー様のところには行けないわ。教会も知り合いが少なすぎるわね。男爵はどう思う?」
男爵が私を一番に考えていないのは知っているけど、一番権力があるのも男爵だから、とりあえず聞いて損はないと思う。
「私はエイヴォンは悪くないと思っているよ。ルイーズはギルドフォードも魔法で堕としたと聞いているしね。私やフランシス、スザンナも同行するし、ロアノークやモードリンもいる。そこにニーヴェットは友人で、フィッツウィリアムは弟子志望となれば、ブランドンとゲイジあたりに注意すれば、あとは味方だらけだね。」
「堕とすって表現がおかしいけど、うーん、どれも一長一短ね。」
言われてみると味方の多さではエイヴォンなんだけど、あらゆる意味で立地が悪いのよね。
「ルイス、ここはエイヴォンで手を打とう。」
「ルイーズ、味方だったらノリッジの方が純粋な味方ばかりよ。」
「聖女様の後援者で最も高位なのはウォーラム大司教様です。彼から近いエルサムにいたほうが安全でしょう。」
「魔女様、カボット船長は男前でもあるらしいぞ。」
なんだかデジャビュ。
「なんだか私達、堂々巡りしてない?」
「ルイス、とりあえずヘンリー王子のところへ行こう。私もエイヴォンの詳細は聞いていないし、王子が心配してこの部屋を訪れでもしたらややこしいことになるからね。」
ありえる。私は今男の格好をしているけど、アンソニーとかどう説明しようかしら。友達?
「それもそうね。あの王子ならやりかねないわ。マージ、フランシスくん、一旦この部屋で待っていて。必要なものがあったら、スザンナが戻ってきたら頼めば大丈夫。アンソニーは好きなタイミングで帰っていいわ。・・・待って、マージを男性二人と部屋に残すわけにはいかないわね。」
さっき露出狂騒動があったばかりなのに、アンソニーは人前で脱ぐのを気にしないし、フランシス君はなんというか未知数なのよね。
「じゃあフランシス君は私達と一緒に来てもらって、アンソニーは今すぐ帰宅してもらうわね。マージ、部屋は内側から鍵がかかるから、スザンナが来たら開けてあげて。すぐ戻ってくると思うから、そうしたらマージのパパさんに迎えに来てもらいましょう。」
「わかったわ、ありがとうルイーズ。顔のいい男に丸め込まれないでね。」
マージは私に警告するように、男爵にちらと視線を送った。
「気をつけるわ。ほら、時間よアンソニー。」
「魔女様、俺、まだ魔法足りない。」
アームチェアにどっぷり浸かったアンソニーが、前世の幼稚園児みたいに駄々をこねた。考えてみれば前回よりもだいぶ短いマッサージになったのよね。もちろん延長サービスなんてしないけど。
「スザンナ、例の鳥の羽だけど・・・」
「うわあっ!!!邪魔したなっ!!またなっ魔女様!!」
パブロフはスザンナがこの部屋にいないのも忘れて、一目散に廊下に飛び出していった。
「じゃあ、行きましょうか、男爵、モーリス君、フランシス君。待っていてね、マージ。」
「やれやれルイス、自称副官じゃなかったのかな。」
私は三人を引き連れると、下のヘンリー王子のフロアに向かった。
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参考:登場した場所のリスト(国内)
ー ノーフォーク地方
ノリッジ
ルイーズの地元でこの国第二の都市。王都から見て東にあるため、ルイーズは『東の魔女』と言われた。ルイーズの大叔父が市長をしており、ルイーズの父はノリッジ選挙区の代議士だった。
ノーフォーク
ノリッジ周辺を含む地域で。ルイーズの祖父から従伯父へと州知事ポストが受け継がれた。かつては白軍派の主力ノーフォーク公爵の所領だったが、内戦後に領地は平民の間で分割された。
ヨーマス
ルイス・リディントンの出身地。ノーフォークの港町で、ノリッジにも近いが、ルイーズは訪れたことがない。ウィンスロー男爵はヨーマスへの『里帰り』の途中でノリッジに寄ることをルイーズに提案した。
キンバリー
ルイザ・リヴィングストンの出身地。ノリッジに近い町で、ルイーズの知人ウッドハウス家の地元。内戦前は白軍派のウッドハウス家がキンバリー伯爵として治めていたが、内戦後領地と爵位は没収された。
バッケナム
ノリッジにほど近いノーフォークの村。ニーヴェット家の地元で、要塞のような城に住んでいる。
フェルブリッグ
ノーフォークの港町で、ルイーズの知人の海運業者ウィンダム家が活動。ルイーズ亡命計画のルートで、サフォーク公爵はここから亡命している。
ブリー
ノリッジから王都へ向かうルイーズ一行が一泊した町。ふくろう亭がある。ノリッジよりも小さい。
ーーー 王都周辺
王都
この国最大の都市で、政治の中心。ルイーズの星室庁裁判が行われた。ルイーズの兄はここで弁護士修行中。火事のあった日、国王は王都の議会に登院していた。東西に大きな川が流れている。
ホワイトホール宮殿
王都の中心部にあるメインの宮殿だが、現在は掃除中で王族はリッチモンドに移っている。
リッチモンド宮殿
王都の西の郊外にある、比較的新しい宮殿。現在王族の大半とルイーズ達が滞在している。王都から見て上流。
グリーンウィッチ宮殿
王都の東の郊外にある、比較的新しい宮殿。リッチモンドでの火事を受けて国王陛下が避難した。王都から見て下流。
エルサム宮殿
王都にほど近い宮殿で、アーサー王太子の避難先に選ばれた。
ーーー 西方
エイヴォン
温泉のある地方で、最近温泉地の再開発が進められている。鎮火の際に腰に負担のかかった者が多かったヘンリー王子周辺の避難先に指定された。
ブリストル
新大陸航海団が出港する港町。エイヴォンにほど近い。
ケルノウ
エイヴォンよりさらに西にある、ヘンリー王子の領地。王子一行はここで狩りをしていた。アクセスの良くない辺境の地で、土地も豊かではなく赤字財政が続いている。モーリスは林業の開発を進言しているが、ヘンリー王子は森が失われることの消極的。
ーーー その他
チェシャー
北方にあるスタンリー卿の地元で、ダービー伯爵の本邸がある。北の国との国境から遠くない。
エイルズベリー
北方の修道院に送られる予定だったルイーズを、スタンリー卿が捕獲しようとした町。
ドーセット
南方にあるドーセット侯爵や妹のエリザベス・グレイの地元。海に面していて、対岸の東の国と交流がある。




